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ブルックナーの音響的《作用》

Friday, October 14th, 2011

ブルックナーの音楽の「無内容さ」は、(それ自体が価値判断を含んでいないものの)あくまでもマーラーの音楽が「内容」を含んでいる、というような限定的な文脈に於いてでしかなく、それほど深遠な意味を持つ言説を放ったつもりはない。そもそも、こと音楽に関しては「無内容だから無価値」という訳でもない。音楽は自体が高い抽象性を帯びているので、基本的に無内容なのだ(無意味ではないが)。

 

むしろブルックナーの音楽の一聴したところの「つまらなさ」は、CDなどの音源を通して行われる疑似音楽体験という不利な状況下における、きわめて公平さに欠いた条件における感慨でしかない。つまりブルックナーの体験は録音を通してのものでは、決して理解されないような非常に不利な立場に置かれていると言えるのである。

 

実は、かくいう筆者も感動的なブルックナー体験をしていないわけではない。だが、それは音楽の作曲された「内容」に動かされるというよりは、響き自体がもたらす身体的な作用と呼ぶのに近い「体験」だったのだ。しかもそれはライヴ状況におけるもので、しかもそれは自分が演奏者の一人として、その音のただ中にいたときに起こった。それは《ロマンティック》という呼称で呼ばれることの多い、交響曲第4番のリーディング(初見試奏)での出来事だった。

 

冒頭の弦楽器がトレモロを奏でてつつ、体に接する空気がざわめきながら包んでいるとき、ある和声進行が起こったときに、突然自分の体を電気的な「感動」が貫いたのだった。これはどちらかというと宗教的な恍惚というのに近い感覚で、「劇的なクライマックスに心が躍る」とかいうような分かりやすい情動というのとは、また違う肌合いのものだった。だが、その生理的とも言いたくなるような身体的な反応は、同時に便宜的に「感動」と呼ばずになんと呼べば良いのか分からないような作用として感得されたのだった。

 

これだけがブルックナーの唯一の価値だと談ずることはできないが、少なくともこれを味わうことなく、ブルックナーの好悪を決するのは、まったく公平さに欠いたものだと言わずにはいられないのである。