いかなる事故死も悲惨である

六本木ヒルズの回転ドアの事故原因究明のテレビドキュメンタリーを見る。

別にこの事故が重大じゃなかったと言いたいのではない。重大だ。それが一人でも生命を奪ったとすれば…。どのように、あの重量級の回転ドアが児童の頭を砕き、頸椎をへし折ったのかを、ダミーを使ってリアルに再現していた。それは正視するに痛々し過ぎるものであった。だが、それは、1日平均30人の命を公道で跳ね飛ばし骨を砕いているクルマによる人災を、なぜわれわれが当たり前のように「受け入れている」のか、というわれわれの想像力の欠如も浮き彫りにする(例えばだが)。どうして、回転ドアの事故原因を追求する「失敗学」は、クルマの「失敗」を追求しないのか? それは、もはや安全を問う必要もないくらい明らかだからか? それとも、自動車産業は、「回転ドア」産業よりも政治家を生活者を自分の側に取り込んでいるからか? 

われわれの生活をふと振り返って考えると、「事故原因」ということで言えば、自動車事故で死亡する人は、日本国内だけでも1年に10,000人を超える。10,000(いちまん)人である。母集合との人口比で考えなければナンセンスだとおっしゃるだろうが、イラクへ戦争に行ったアメリカ兵の方が、開戦から数えてもまだ死者は少ない。だが、この交通事故の死者の数をもって誰が大騒ぎしよう? 誰がこの死者の数をもって凶器たる自動車を禁止しようと言うのであろう。つまり、死者の数ではないのである。自動車による事故死に関しては、われわれその恩恵を受けている人たち全員が共犯であるが、回転ドアの必要をわれわれは自動車ほどに承認しない。言ってみれば、「常識」ってやつが回転ドアを有罪にし、「常識」ってやつがクルマを無罪にする。

われわれの住んでいる世界を支える常識ってやつは、こんな程度のものなのだ。断じて、便利は安全に優先される、という狂気の世界にわれわれは住んでいるのである。

人々の常識が「戦争の必要」に承認をすれば、「敵国」の領土に爆弾を雨霰と降り注いでも、それは免罪されるのであり、そうしたことに反対する一握りの人間たちを、「共犯関係だったはずだ」との無意識でもって、弾圧を加えるのである。

One Response to “いかなる事故死も悲惨である”

  1. おおた Says:

    >enteeさま
    8000人、というのを以前ニュースで統計の数字を言っていたのをおぼえていたので、詳しく調べてみたのです。1万人を切ったのは1996年だそうです。
    この数字は警察の統計なので24時間以内の死者のことだけですが。
    それでも、自動車にかかわる危険が、あいかわらずなのか、改善されたのかについて、ちょっとはマシになっていると思って書きました。

    今回このNHKの「報告」で私の気になったのは、それでもステンレスのドアをやめられない、ということでした。

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