知と本能が円環を成す

自分が実現できること以外の、多様なもの、別のもの(オルターナティブ)、が世界にあり、人々は自分が供給できる以上の様々な何かを求めさえする、ということが自覚できれば、何をやっても良い。自分の気質や体癖というものがある。それに根ざした表現が必要であれば、それは「出されなければ」ならない。多様であるということの重要さを理解すること、一方、自分が自分でしかなくそれを結局は追求せざるを得ないこと。そして限界と可能性に自覚的であること。それが必要なだけだ。それはその本人がより良い生を生きるために、その個人にとって重要な生きる「よすが」だからだ。

だが、その選択の余地のない表出方法を、「芸術らしきもの」であるという理由で、芸術であると無条件に呼ばなければならない訳ではない。

自覚的であることが芸術であるとU氏は言った。それだけではないだろうが、その考え方は理解できる。

あの日常行為に非ざる朗読の発声法は、自分で到達したものだと言う。確かにそうだろう。疑うべくもない。それは、ある種の伝統芸能に見出される特徴的な発声法とまったく同じではないものの、それに至るのではないかと想像できるような伝統的表現の初期的萌芽があるように思う。だが、そこで安易に伝統的な技術の習得に走るということをせずに、今やれることをいまここで実践している。そして、そのやり方の正しさを信じて邁進する、その強さには尊敬を超えて脅威さえ覚える。同時に、その強烈さ故に、さらに、その手法に追随する人間を作り出す。

落とし穴もある。自由への外的な脅威から逃れ、全体主義的に堕する世界に背を向けて、あるいは、それに反旗をさえ翻しているにも関わらず、自由獲得のための闘争と個性保存のために集った人々が、知らず知らずにその内部的な教義に従うという非民主的な(不自由な)選択を採っているかもしれないという矛盾の萌芽もある。だがそれは、追従するものが自分で最終的に気付き、乗り越えて行くべきテーマであって、氏自身の問題ではない。だが、一通りの追従者で自分の周りを固めることで満足したら、それは小さな王様をもう一つ作ることに過ぎない。それ自体が悪いのではないにしても。多様な価値観に意義を見出せる私は、「だが、それで良いのかも知れない」と感じたりもする。何を教義としているのか、ということは個別に検討される必要があるからだ。少なくとも悪しき者たちの支配下に置かれることのない王国を作ったことにはなるのかもしれない。少なくとも。

どこまで自覚的たれるか、ということが大事なのであれば、そうした自分や周囲の支持者たちに存する傾向にさえ、自覚的であることが、客観化であり、本当の解体だ。解体は、彼の目的なのか? いや、そうではないのだ、おそらく、明瞭なまでに。

生きる目的、表現する目的、ということが言及された。しかし、それが何であるのかという分かりやすい答えは用意されなかった。(当然と言えば当然だが。) 表現することと生きる目的。これは一致するものだ。そしてそれが重要な認識であることは否定するまでもなく明らかだ。だが、それ自体が芸術の何たるか、の答えではない。

私には分かっているが、容易に文章化することに、ためらいがある、そのこと。私の考え方では、芸術は、「伝統」の中で受け継がれてきたあるサイン(徴)の中にある。だが、「芸術は、伝統的な職人の中にはない」とU氏は断定した。(だがそれは違う。)彼はこうも言った。「職人世界の中に芸術家がいたらそれはその中に居られない」と。その意味は分かる。だが、それが芸術家の定義であると言うのであれば、私はこう言うだろう。それは、近代以降の「芸術」家の定義ではあるかもしれない、と。そして、それは芸術家の定義ではなく、むしろアウトサイダー(局外者)の定義だ。

むろん、今の時代、アウトサイダーが表現手段を見出して<芸術家>になることはあり得る。幸運なことだ。だが、もっと言えば、近代以降はアウトサイダーによって芸術の精神が僭奪された。(これには確信犯的な目的があった可能性もある。)そして、それこそが芸術の本質である、ということになった。だが、アウトサイダー=芸術家、ではないのだ。どこまでいっても。おそらく、近代以前は、ほとんどのアウトサイダーがこれまで芸術家であることを見出されずに、世界に対する居心地の悪さ、あるいは明確な憎悪の中で、生き延びたり死んだりした。そして、今から見れば、彼らのほとんどが、歴史に省みられることもなく、アウトサイダー(ロマン主義者、あるいは敗北者)として終わった。

おそらく、この歴史自体については氏も否定はしないだろう。アウトサイダーの中で、あるものは宗教家的な幻視者になったかもしれないし、極右/極左の政治活動家になったかもしれないし、戦争という異常事態における英雄の類になったかもしれないし、はたまた性犯罪者になっただけかもしれない。あるいは表現手段をもたない単なる狂人に。だがそうした猟奇的な傾向というのが、そのまま芸術家であるということにはならない。怒りや悲しみの表現だけが芸術の目的ではない。重要なテーマの一つであることを否定する由もないが。 問題は、最初に戻るが、多様性への要望と限定的な存在である自己のあり方への自覚なのだ。

改めて、そして敢えて言うなら、氏の定義したるところの「芸術家」とは、個人が表現手段を徐々に見出し始めた近代以降の芸術家達のことである。それはおそらくあらゆる創作行為を通じて「あるもの」を伝えてきた表象活動の連なる数千年以上に渡る人類の歴史そのものの中でも、ごくごく最近、長く見積もっても、三,四百年位の歴史以上の長さをもたないものなのだ。つまり、妥協なき自己実現を人生の目的に、と設定することが始まった時点以降の話である。そしてその始まりは、資本の蓄積や技術の近代化という歴史的側面とセットになった現象なのである。

極端なことを言えば、氏の言うことを字義通りに鵜呑みにすれば、近代以前には「芸術家」はいなかったことになる。氏の定義を前提とすればそういうことだ。すべての論理には前提がある。氏の指すところの「芸術」は「そうであるべき」と信じるその定義も、その前提性を免れない。ファン・ゴッホを自己表現のあくなき探求者であり、芸術家と呼ばれるにふさわしい人物の「ひな形」であるという考え方自体が象徴的である。ファン・ゴッホをして芸術の定義とする、という事自体がきわめて分かりやすい、広く現代人の参加できる芸術活動である。

だが、その前提を肯定すれば、それ以前の表現のすべては、まだ芸術でさえなかったということになる。だが、これに対し、私の芸術理解は断じて「否」と言うのである。

芸術は、人類の歴史の偉大さと卑小さ、自分という個人の、ある壮大な出来事の中における卑小さと有意味性、あるいは、卑小さの中にこそ偉大な精神が潜み得ること、そのすべてを一瞬に鳥瞰的に教示するものである。しかも隠しながら。それは、もちろん、それをそのように受けることのできる知識と知性、徴を感知できる感性とそれに驚くことのできる感情(畏怖)、そうした一切が要求されるものである。知識や知性は、芸術理解と無関係ではなく、加えて、連想や想像力という力を借りた真の洞察力(推理力)こそが要求される。そうした一切を備えている人間の心臓を一気に打ち抜くものが、(私がカギ括弧なしで呼ぶところの)芸術なのである。

氏の「芸術」の概念は、近代以降の時代、まさに現代を生き、生きる意味や表現のありかたを知恵を絞って追求するわれわれにとって切実なものであることにまったく異論はない。だが、それでもなお、それを芸術であると呼ばなければならない理由を十分に説明していないのである。切実さを生きれば良い、ということが主旨であるのであれば、その名称にこだわらずに自分の信じる行為に自己を投機すれば良いことなのである。だが、われわれにとって切実な行為の結実が、未来の人類にとって<芸術>の名に値するものであるかどうかは、現代を生きるわれわれには知る由もない。そして、絶対的にそれが将来においても芸術であるだろうという保証をわれわれは、もたないのである(だが、それが何だというのだ!)。そして、その保証なき自己の内観的行為に投機(投棄)する以外にない、という時代を、われわれがまさに生きていることに自覚的でありさえすれば良いのである。

その点に関してのみ、(芸術的であると現代のわれわれが信じている)ゴッホと同じ立場にわれわれが立てる、ということなのである(それ自体が大変なことである事実を割り引く意図はない)。ゴッホは自分がどのように位置づけられるかということに本当に自覚的であったかどうかは分からない。むしろ、彼にとって果てしなく切実なことに投機したというその生き様を受け入れ、肯定することでこそ、われわれの現代的な生き方や表現も(悲しいことだが)一気に肯定されるのであり、未来を予測できなかったという点では、われわれもファン・ゴッホも同じであるはずである。

人間の行為がすべてアート(芸術)である、という最も広範なアートに関する定義は、個人がどう表現するのかという切実さを追求する動機からすれば、この際、もはや重要ではあるまい。だからアートが本来どういうものであったのか、という前提に立ち戻る必要は(われわれせ俗人にとっては)ないのかもしれない。だが、歴史そのものが最も巨大なアートであるという前提で、「最大最長のアート」を鳥瞰するとき、その人類の行為自体がアートそのものである、というその捉え方は、われわれの議論の俎上に再び戻ってくる。

個人性の追求(それには即興創作が典型として含まれる)、そしてその果てにあるかもしれない創作物/作品。それを「芸術」と呼ぶ考え方。一方、歴史上無名であったかもしれない無数の職人や、集合的無意識が有形無形の方法で今の時代に遺し伝えてきたサイン(徴)の顕現をこそ(カギ括弧抜きの)芸術と呼ぶ考え方。果たしてこの全く異なる二者を総合する芸術における「統合理論」というものはあるのだろうか? 私の直感は、あると言う。それを見出したような気がしたこともある。だが、限られた時間の中で成果を出そうという日々の欲を優先すれば、どのようにそれに至るのかという経験的な方法や知的アプローチを、容易に置き去ることはできない。つまり、1000回行う即興より、より大きな確率でサイン(徴)の顕現を果たすという方法があるのではないか、という知的な創作の選択への誘惑も、それはそれで断ち難いのである。

そして、またトランス(忘我の境地)の中で作られていく即興の劇的性(物語性)を見つめたい、そのなかにサインの顕現を認めたいという誘惑も、同じく断ち難いのである。つまり、「二芸術領域の統合理論」を体験によって実感したいのである。

そんなこんなを、改めて考えさせてくれるU氏との出会いであった。縁とは誠に不可思議なものである。

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