「学び捨てる」機能を思想に内包させる

ある方からコメントを頂いたので、ちょっと補足します。

「学び捨てる」で、スピヴァクが言いたかったことは、「自己探求」というよりは、生きている間に蓄積されていく「知」というもの自体が、多くの思想家が批判対象とするところの「特権」そのものに他ならないという自覚、すなわち、依って立つところの自己の否定(自己の批判)抜きにはあり得ない、ということであろうと思います。つまりひとを批判しているつもりが、その批判の矛先は持論の前提となっている自分の収集した「知」そのものにも最終的には向かう、ということです。

ところで、unlearn(学び捨てる)という言葉を見たときに私が連想したのは、コンピュータ用語としてわれわれが現在普通に使うことになったuninstall(ソフトの削除)という単語です。すべてのソフトウェアに付いてくる機能ではありませんが、メジャーなところではinstallerとともにuninstallするソフトが付属してくることがあります。今やパソコンの構造が複雑になっているために、ひとつのソフトを一旦インストールしたら、そのソフトが不要になっても、そのソフトに関わるパーツの一切をHDから完全に取り除くことがなかなか容易でない。だから、こうした「削除するためだけに用意されているソフト」というのは実に有り難いものです。そして、非常に奥ゆかしいばかりにuser-orientedです。

翻って、思想においてもその思想自体が「uninstall」機能をあらかじめ織り込み済みなのか、ということについて考えるわけです。それは、モノを喋ったり表現したりする発信者側に自覚としてあるのか、ということです。つまり、ある考え方や観念を自分の発言の中に取り入れるときに、それ自体を必要なときにもう一回「なかったときの状態」として現状復帰できるか、できたとしたらそれはどういうことか、ということです。

これは単なる喩えに過ぎませんが、ある考えや思想、そして「知」が頭の中に「ある状態」と「ない状態」の両方を自由に行き来して想定することの出来るのか、ということです。ですから、これは、あくまでも自己探求云々ということではなくて、他者との関わりにおいて、自分の立場や考え方を相対化できるかという、他者への想像力についての話です。引いては、それは自己探求ということとも関連があるのかもしれませんが、それがスピヴァクのそもそも意図した主旨ではないと思います。

もちろんひとつの言説がさまざまに了解できるという言葉の多義性・象徴性ということを鑑みるに、やはり面白いことだとは思います。ただ、私が物理的に、精神的にどこまで自分や自分の周囲に堆積したあらゆるものを捨てきれるのか、ということは、全く別に「見出される課題」のひとつである、とここではとりあえず申しておきましょう。

One Response to “「学び捨てる」機能を思想に内包させる”

  1. entee Says:

    nomatinさん、まずはこんにちは。私が存じ上げている方なら私が認識できるハンドル名にして頂きたかったですね(苦笑)。それとも今回私の知らないハンドルにしたのには何か理由が? いずれにしてもレスありがとうございます。

    さて、案外、多くの人にとってネット上のonかoffかに関わらず、大事なのは言葉の交換そのもの(そういう面は確かにあるけど)で、「話の中身」なんかどうだっていいのかもしれませんが、いろいろ思っちゃうんですよね、中身について。レス自体はいつでもwelcomeですが、そもそも「何か」を分かって欲しくてスピヴァクの話を載せたのは私の方で、それが読者に伝わったかどうかがこちらには伝わって来ない。もちろん書いた自分は、ある文章の多義性の発見ではなくて、文脈の解読こそを期待している訳です。nomatinさんのコメントを読んでも残念ながら「自己探求」というご自身にとって関心あると推察されるテーマに引き寄せて読める、ということを繰り返されているだけで、そもそもの私の意図したことを理解した上での話なのかが、私の方からは諒解できないわけです。前回の文章も今回の文章からもそうです。そこら辺が、何ともさびしいわけです。

    加えて、今回のコメントで「私はそこが解って頂けたら充分です」等と書かれていておりますが、何かを解って欲しくて書いたのはそもそも私の方で、その私の方には依然として解ってもらえた実感がなく、何の「充足感」もない訳です(すみません文句ばっか言って)。そもそも、未だに私はあの本旨が自己探求とは、「ほとんど何の関係もない」と思っているし、そもそも「自己探求などというものはこの際意味がない」と思っているフシすらあるわけです(それについては別途書く予定)。nomatinさんと私の使っている言葉が「兎角すれ違」っているのではなくて、本旨についての解釈の仕方もしくは読解自体が違っている訳です。

    あと、<「他者あっての自己*」を忘れてはならぬ>と書いておられますが、スピヴァクにしてもサイードにしてもファノンにしても、彼らが言っているのは「(そういうことも)忘れてはダメだよね」などというような「附帯事項」ではなくて、具体的にいえば、コロニアリズムについて、「(自己を差し置いて、まず)他者とどうかわれわれが関わっていくべきであるか(あったか)」という課題そのものを中心に据えて考えていたんだと思っていますから。その中で、他者との関わりについてというあくまでも主たる考察の過程で、われわれが獲得した知識自体が、実は特権的なものであることに自覚的か、と自身に問うているわけです。

    * 「他者あっての自己」というものは、本来「自己探求」を最優先に考える獰猛な飽くなき探求者からすれば、妥協の産物でしかなく、自己探求者がそう簡単に譲っちゃって良いことだとも思えませんが、それについてはここでは深入りしません。

    私に間違いがなければ、おそらく、私の最初の文章の中で、あえて「自己探求」の文脈でも辛うじて有効かもしれない一事は、単に「unlearn: 学び捨てる」という一単語についてだけです。この単語が自己探求の過程に於けるキーワードにもなりそうだな、という一点だけです。それはこちらもすでに諒解済みです。では、私の最初から書いていたポイントについては、nomatinさん、諒解頂けましたか? それとも、「コロニアリズム」なんて関係ない、ですか? (なければないでいいのですよ。)

    いやあ、それによりも何よりも、対バンは楽しみですよ。鎌田さんも粋な計らいを!

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