「歴史教科書」に対する批判は内政干渉ではない

歴史教科書を巡る論争と言うのは、日本と朝鮮半島、日本と中国の間にだけ存在したものではなくて、第二次大戦を闘ったヨーロッパの戦勝国と敗戦国の間でも真剣な議論となった問題である。だが、例えば大戦中侵略国であったドイツと、それに対する防衛戦を闘ったロシアやその他の東ヨーロッパの各国の間で行われた教科書を巡る意見交換と、日中もしくは日韓の間で行われているやり取りとを比べると、その質は全く異なるものであると言わざるを得ない。

「歴史教科書問題」(高橋哲哉)

自国の歴史をどう捉えるのか、自国の過去の行いをどう受け止めるのか、というデリケートな問題である以上、「他国からの干渉」と思われるような発言に感情的に反応してしまう事情も理解できないことではない。だが、ここで二国間で感情的なことばの応酬をしても、その扱いを間違えれば、単なる感情的対立では済まされない、将来の互いの安全を損なう火種として残ってしまう可能性もある大問題である。

この辺りの、教科書事情というのは、確かに内政の問題として他国の干渉を許すべきでないという、一見正論に見える意見があるものの、実は、他国との関係、すなわち他国間関係と緊密につながりのある、容易に避けて通れない政治的・外交政策上の課題であることに違いはない。「歴史教科書」に限らず、歴史解釈そのものが、隣国には関係がないと言って済まされるほど、単純な問題ではないのである。歴史解釈、ひいては歴史教科書とは、隣国との関係のありかたをどうしたいのか、という国家の方針の反映そのものなのである。

歴史の共有、もしくは「共有への各国の歩み寄り」の努力なしに、明るい国際関係はあり得ない。自国史は自分たちが信じたいように記述し、それを自分たちの子孫に押し付けるというやりかたからでは、他国からの共感も協力も尊敬も得られないのは自明であり、独善的な自国史観の果ては、完全な孤立と対立しかない。

われわれは、自分たちにとって都合の良いことだけを美化して過去の過ちから目をそらす歴史観を(彼らが批判の際によく使う「自虐史観」ならぬ)「自慰史観」と呼ぶことにしよう。そのような自慰行為から抜け出せぬ国家がどうやって他国と成熟した「未来志向」の関係を築いて行けるというのだろう。(アホくさ。)

参考:歴史の共有に向けて

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