「自滅」を目指せ!(って、目指してるか、別の意味で)河上肇の評論文

河上肇評論集(岩波文庫)というのを手にしたが、その最初の方で驚くべき小見出しがあったので、思わず立ち止まって読んでしまった。その評論ひとつが「経済上の理想社会」というどちらかと言うとやや平凡な大見出しであったが、そのエッセイの小見出しのひとつが「宇宙間一切の物は皆なその自滅を理想とす」となっていてドキッとさせられる。この見出しが内容を十分に反映しているかどうかはともかくとして、その評論の文章自体が驚愕に値するものであった。

「それ万物は皆なその自滅を理想とせざるものなし。たとえば病院の目的は如何というに、曰く疾病の治療にあり。故にあらゆる患者の疾病を治療し尽くして、世に病人というものの全くなくならん日あらば、ここに始めて病院設立の終局の理想は実現せられたりというべし。」

「万物」から「病院」に突然飛躍するこの文章を読んで思わず吹き出した人は、(気持ちは分からないでもないが)世の中の根本問題に無関心であるか、本質的な世の理想を想像する力に欠けている可能性もある。彼のこの文章だけではないが、人間の経済活動、人間の運営する組織、そうしたものに潜在する課題、つまり、目的があってからこそ手段として発生した産業なり経済活動の存続が、人生や経営の目的そのものと化してしまう人類活動の逸脱について述べているのである(手段の目的化)。

彼はこのように続ける。

「(略)能く考えて見れば、病院は病院自身の滅亡を理想とすという事、言奇なるに以て実は奇ならず。学校も同じ事にて、無教育者を全くなくするがその終局の理想なれど、もしその終局の理想にして実現せられ、世の中に教育を受くる必要ある人の全くなくならんには、学校は乃ち廃止されざるを得ざるなり。裁判所といい、監獄といい、法律というの類、推して考うれば、皆なまたその自滅を理想とするにあらざるなし。」すごい!

確かに、一見極端な言説だし、新しい人間がどんどん世の中に生まれてくる以上、学校そのものが不要になるはずがない、などと揚げ足取りの反論をする事は出来るかもしれないが、病院も学校も、喩えとして若干のほころびがあるだけの話であって、その謂わんとするところの本質を見逃してはならない。これは、人間の団体というものが本来、目的的に組織されるものでありながら、それが一旦組織化され、そこに定常的な人間の関与が発生すると、不要になった暁でも、「分かっちゃいるけど止められない」という状態になりがちだということだ。肥大化する省庁や増え続ける特殊法人のことを挙げるまでもなかろう。

そして、ただ存続するだけなら大して害はないように見えるが、実は、組織が組織存続のために、仕事を造ろうなどと画策し始める(実際、そうならざるを得ない)や、その組織がほとんど犯罪じみた行動に向かう事さえある、ということなのである。曰く「民の争訟ますます多からん事は裁判所を設けたるの趣意にあらず」だが、実際は、弁護士になってしまえば弁護するべきクライアントが必要だというような「目的と手段の顛倒」は、現実的には珍しくはないし、この評論でも挙げられている病院に関して言えば、まさに自己存続のために病人をせっせと作っているような現代の医療の在り方は、河上肇が理想的なありかたとして述べていることのまさに逆行しているのである。それに「囚徒のいよいよ多からん事は監獄を設けたるの本旨にあらず」にも拘らず、日本でも刑務所のプライベートな企業による民営化などという呆れた方向に進んでいる。

ときに、刑務所の民営化なんていう流れも、考えてみれば「囚人がいなくなればそれが一番良い」という社会の理想の追求という観点から見たら全く逆行しているわけだ。これは刑務所に入る人が増えるほど、私企業が儲かるかもしれない、という実刑判決者の増加を見越した悪しき方向であるとさえ断じなければならない。本来、社会が法律によって「犯罪者」を定義せざるを得なかった以上、それを社会がすすんで「やむをえないので公のこととしてハンドルしよう」とすべきところなのに、そういった公的な事業とそうでないものとの区別さえもできなくなっている。「民間でできるものは民間で」などというのは、根拠が薄すぎる。多くの公共事業がやってできないことはないだろうが、「やれるかやれないか」が、実行することの判断基準であっていいはずがない。「公共でやる」ということには理念上の根拠があったのである。

いや、話が脱線した。この河上肇のこの評論の行き着く先というのが重要なのだ。この文章も、人類がもっと高貴で神的なものに進化したら、それは「人類の自滅」という理想に達すると、ほとんど神学論的に大いに脱線しつつ(好きだ!)も、「経済社会の理想は経済社会の自滅にあり」という小見出しにも表れているように、重要な結論に達するのである。そして、それは窮極的には、悦楽のために労働があるのに、労働自体が人間の生活を圧迫するのであれば、意味がない。どこかが間違っている。という所に論が導かれるのである。それは、「文明の利器」がわれわれを労働の苦しみから全然解放していないんじゃないか、という This entry was posted on Friday, April 22nd, 2005 at 11:59 pm and is filed under Good/Bad Books Memo. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.

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