「弾圧」を実体化させるな!

例えばさぁ、の話である。

誰かが「理想の地」を海外に見出し、ある種の芸術活動をしようとして、最初は同地に合法な手段で入国し、その後、ビザの効力が何らかの理由で切れてしまうとしよう。(海外に生活基盤を求める人が増えている以上、このようなことは世界中のあちこちに起こっていても不思議はない事態である。)しばらくは出入国管理所のチェックもなく、問題もなく経過していたとして、ある日、何らかの詰まらない理由で「不法滞在」が当局側にバレてしまうとしよう。そして、やがては強制的な国外退去命令が下る。これは、政治亡命や難民でない限り、芸術をやろうと、ある種の文化活動をやろうと、ビジネスで一旗揚げようと、どんな理由で同国に渡ったかによらず、それは単なる「個人的な法的な手続き上の問題である」と言える。

そこでだ。単なる個人的な「法的手続きミス」なのに、それによって生じたトラブルに過剰反応して、周りがその問題を「文化弾圧だ」と騒ぎ立てるとする。すると、どうなるか。それは、単なる個人的な「事故」や「判断ミス」であったかもしれないのに、そのことは「文化弾圧」であるというコンテクストで読み返され、再解釈されることになり、それは「社会的な事件」となる。

「起きた現実」と「人間のこころが成す解釈」の間にギャップが起こる。あちらでもこちらでも起こる。そしてその際、「解釈」はおそらく渡航した本人の出身地と本人を受け入れてきた当地の両方で、あるいは立場の違いによって、さまざまなギャップの諸相を見せることになる。だが、十分に意識を向けなければならないのは、「文化弾圧である」と考えたい人々の思う通りに、結果として、その問題が「現実化していく」という可能性についてである。つまり、「予言の自己成就性」のように、「事象」の方が主張する解釈の方に近寄っていく、という主客の顛倒が起こる。

すなわち、その「個人的ミス」が「大きなミス」へと発展する可能性がある。

そうなったとしたら、海外における文化活動の実践基盤を守ろうとする側にとっても、政権当局者の側にとっても、どちらにとっても不幸な結果が待っている可能性があるのだ。

つまり、ある特定の政治活動家の反対運動が、「○○の自由を守れ」とコールすることで、権力側に「本当の弾圧」をするきっかけ(口実)を与えてしまうということである。権力者側だって、人間の集まりである以上、「あらぬ腹の内」を探られれば感情的にも反応するし、一旦感情的にある特定の集団を視るということになれば、彼らも自己保身の論理で動いているのであるから、「火の手」が大きくならないうちに、「弾圧」を強化して、もともとはありもしなかったその「運動」を抑えようとするかもしれない。最初はどこにも問題はなかったのにも関わらずだ。そうすれば、運動をする側からしても「それ見たことか、これが権力の正体だ」と一層の運動の激化を呼びかけるかもしれない。そして、弾圧する側はその力をさらに高める。これを「意地の張り合い」と呼ぶ。

それは、果たして芸術活動をしようとして実際に他国へ渡った表現者当人の立場をよくすることなのだろうか? 渡った表現者自身が政治活動を展開するために、意図的に「ビザが切れて不法滞在する」ことを計った、とでも言うのだろうか。それは十中八九違う。彼/彼女にとっては、今まで通りにその国に滞在できて、好きな表現活動を続けられて、その地で見つけた友人知人たちと楽しくやっていくこと、だろうと私は容易に想像する。

政治権力に関わる問題とは、もちろんあちこちに存在する。だが、なんでもかでも「それ」であるとラディカルに反応することが、どういう結果をもたらすのか、ということまでクールに想像する知力が必要なのではないか。

たとえば、果たして、このことを「政治問題」として読み替えることが、渦中の人自身の福利になるのかどうか、あるいは、今後その地で表現活動をしたいと思っているわれわれ自身の福利になるのかどうか、そこまで考える視点、つまり「闘争せずに勝利を得る」という視点と戦略とを十二分に吟味しているだろうか。こうしたこと一切を、あらためて熟考する必要がある。

フルスケールの「政治闘争」となって得をするのが誰なのか、そして、誰が一番貧乏くじを引くのか、考えてから行動したい。保守的に響く発言だが、今は「その渦中にいる人」がどのようにしてそのトラブルから離脱できるのかを優先して行動する(あるいは、行動せざる)べきではないだろうか。ここはひとつ新たなニュースが来るまで黙って見ている、というのが良い。(という自分が、こんなものを書いた矛盾には、どうか皆さん目をつぶって下され。)

まったくもって、抽象的な「例えば」の話なんだよね、これは。

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