「ありふれたファシズム」(ある映画作家の慈愛と洞察)

われわれの日常的な無関心やそれに深い根を持った言葉、均一化、同質化への期待。同じでないことへの無意識の忌避。こうしたことは毎日の行動や言葉の中に現れる。

リュボーフ・アルクス編『ソクーロフ』(西周成訳)p. 200

>> ボリス・エリツィンはなによりもまず言葉の人間である。(略)しかしエリツィンのモノローグはひとつも映画に入らなかった。ソクーロフの根拠は無慈悲なものだった。「果たして政治的レトリックが人間について何かを語ることができるだろうか? それは彼個人ではなく、集団に属しているのだ」。<<

そう、われわれの言葉は、われわれの心が弱い時こそ、集団を根拠に口から出る。エリツィンでなくたって、われわれは時として、政治家のように語る。「みんながそういっている」と口が滑る。それはだが、集団に属している意識と、集団に属さないものへの愛の欠如がそうさせるのだ。

われわれは個人の咽喉から漏れ出てくる言葉にこそ、個人の言葉を聞き取る。誰彼が言っていた、みんなが言っていた、という、あたかも<あなた>が世間を代表するかの言い分ではなく、<あなた>が<あなた>自身の言葉で<私>に話しかけることができた時、それは個人の言葉を聞き取ることになり、<私>にとっての真実となる。まかりまちがっても顔の見えない不特定多数の誰かを<あなた>が代表できるかの幻想を見てはいけない。

(「犯罪者」を、笑いもし、泣きもし、痛みも感じる「ひと」として捉えた某ドキュメンタリーフィルムに関してそれを制作した某映画作家に投げかけられた言葉)

鑑賞者「犯罪の被害者がこれを観たらどう思うと思うんですか?」

作家「こちらに被害者の方がいらっしゃるんですか?」

鑑賞者「… ここにはいないかもしれませんが、もし観たら怒りを感じると思いませんか?」

作家「怒りを感じるかもしれないし、感じないかもしれない。でも、ここにはいないですよね。それともいらっしゃるんですか?」

鑑賞者「いないかもしれませんが、もしいたとしたらどう感じると思うか訊いているんです。」

作家「私はこの映画を通して、犯罪被害者の方にではなくて、あなた方がこれを観て、自分でどう思ったかを、あなた方に訊いているんですよ」

彼は、このやり取りを回想してこう言った。「これを観たこの会場にいるみんなの中に、この犯罪被害者の方はいらっしゃらない。犯罪被害者でないあなた方が、犯罪被害者の気持ちをあたかも想像し、それを代表できるかのように思い込んで、そして私の作品を批判する。あなた方は、ここにいもしないし会ったこともない人々の気持ちがわかると思っていて、その癖、そのいないかもしれない人の架空の言葉を以て、人の作品を非難する。良いですか、こう言うエピソードがあるんです。ある知り合いの方が、駅前で死刑廃絶の呼びかけの署名運動をやっていた。そうすると、必ずいるんですよ、こう言うことを言う人が。『そんなことやって! 犯罪の犠牲者の家族の方があなたのやっていることを見たらどう思うと思うんですか!』と。そしたら、この署名運動をやっている方がこう答えたそうです。『私の息子が犯罪の犠牲者になったんです。』」

われわれは想像できているつもりで、充分に想像できていない。何が人をしてある種の行動に掻き立てるのか。いろいろな経緯や気持ちというものがあるだろう。しかし、犯罪の被害者の家族が、加害者の救済を主張することを通じて「あらゆる暴力(殺人)を否定する」という崇高な思想の貫徹をしようとすることがある。

しかし、良心的で公平だと思っている被害者の立場でものを言う、言えると思っていて、ある種の表現を封じ込めようとする正義の人がいる。しかしその人自身が、自分が自らの言葉を語らずに、大衆や「みんな」の意見として、何かを主張し、ある表現や立場に対する弾圧に手を貸す。自分こそが弾圧者側にいることを容易に忘れる。「ありふれたファシズム」は、こうした「正義の人」の中にも容易に巣食いうる。

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