逆説的な夕べ

いいはわるい わるいはいい

じょうずはへた へたはじょうず

きれいはきたない きたないはきれい

まことはうそ うそはまこと

楽器を操る人にとっては、おそらく誰にも「上手に奏する」ことに対する抗し難い誘惑があると思う。(そうだろ、みんな!) ただ何を以て「上手」とするか、というのには千差万別の物差しがあろう。つまり奏者各自が持っている追究すべきテーマによって「上手」というのはさまざまに違って当然なのだ。ただ自分がここで言うところの「上手」なんてヤツは、おそらく最も保守的な定義に属するのではと思われる、多くの自由人系の方々からすれば、糞飯ものの定義に過ぎないかもしれない。でも正面切って話してみよう。

例えば、音程が合っているとか、短い音の粒が揃っているとか、音符のヌケが起こらないとか、他の楽器と「縦の線」が揃っているとか、微妙に旋律を走らせたり遅らせたりだとか、音色がきれいだとか、音が太いとか、自在に音量を変えられるとか、そういうあらゆる保守的な意味で「音楽的であろう」とする時に意識される諸々の技術のことである。もちろん明らかなことだが、こうした点において自分が理想から遠く及ばないことは言うまでもない。

そしてそれらのさまざまな演奏上の「巧さ」というのは、ひとつの方法をすべての状況に押し付けるのではなくて、持っている引き出しの中のいろいろな手法から、適材適所に最も相応しいと感じられるものを理解し、瞬時に選び出し、相応しいタイミングで提示し、それを空気の振動として再現すること、に違いない。そして相応しからざる技巧を敢えてある場面に適用するという様なフェイントも、それを自覚的にできるのであれば「上手」のうちだろう。

ま、この辺りが因習的な意味での「演奏の上手さ」を実現する要素であろう(書き忘れたこともあるだろうけど)。

何を隠そう(って何も隠さないことにしたんだが)。自分にはそういう「上手な」演奏技法というものに対して、無理は承知の上で「到達したい欲求」がどうしても拭い切れない。「ある方面」からは下らんことだと言われても、それは意識の中に深く組み込まれたある種の業だ。それは自分の現状とは全く関わりなく存在する「理想の在り方」として、身体の中に宿っている感覚なのだ(もちろん場面に相応しい理想の在り方をつねに思い描けるとも限らないが)。

それを理想の「在り方」などと呼んで、「カタチ」と呼びたくないのは、「形」と呼ぶにはあまりにも多様で雑多なパラメーターが音楽技法の中にはあるし、あるときに求められることが、ある場面では相応しくないというようなこともあり、あまりにも多くの「型」というものが存在する以上、それはもはや「カタチ」と言うに相応しくないほどに可塑的で雑多なものだと思うからだ。かくも複雑な技巧のパターンや組み合わせが音楽をつくり出すにあたって在るので、仕方なく「カタチ」などという呼び方をしたくないだけの話で、それでも、そう呼びたければそう呼んでもかまわない。(←いつもの脱線)

しかるに、昨夜の石塚トシさんの「新しいアルバム」のためのレコーディングは、あらゆることがウラメにでる実にウラメしくもウレしい挑戦なのであった。おそらく音自体をいいと思って頂けたのでお呼びが掛かったのだと思う。それは大変光栄なことである。しかし、昨夜演奏したあとの「読後感」は、正直言って「ほぼ玉砕」であった(バ苦笑)。実に学ぶことの多い所謂「入社儀礼」の様なものだった。大勢の着衣している人たちの前でたったひとりで脱衣する(すっぽんぽんになる)ということだ。

まず。数日前に貰った譜面からは、「いくらなんでもここは譜面通りに吹くことはねーだろう」と思っていたところ(ものすごくシンプルな旋律)は「譜面通りにやって下さい」と言われ、「ここでアドリブはねーだろう」(だってちゃんとギターソロが入っていたんだもの)というところで、「出来るだけ好き勝手に自由なアドリブ入れて下さい」と言われ、クソ、もっと巧く吹けるはず!と思ったところは、「最初のテイクで良いです」と言われ…という、ほとんどすべてが自分の「浅はかな考え」を見事なまでに打ち砕くものだったのだ。こういうことってきっとありがちなことなんだろうねー。

特に、ミスタッチと言うか、明らかなフィンガリングミスの痕が見えるテイクが「一番よかった」などと言われた日には「お〜い、ちっとまってくれ〜、それはないだろー」と叫びたくなるほどだったよ。ほんとにあのテイク使うんすかぁ?

ほんとに器用だったら、いかようにも「料理」できるんだろうな、ああゆう場面でも。上手いヤツは、言われた通り「下手そう」に吹くことも出来るし「本当に巧く」吹くこともできるんだろう。しかし、上がった「テイク」は、『下手なヤツがなんとか巧く吹こうと格闘している(事実なんだけど)』ようにしか聞こえんのですよ、自分には。それって、ものすごく恥ずかしいことですよ。で、せめて4、5回の自己リハをして、なんとか自分自身がそれなりに満足いく様なアドリブが吹けたとしよう。するときっとトシさんは「どんどん詰まんなくなるなぁ」とか言うのかもしれないワケです。そんな雰囲気だったんだよね、昨日は。

それにしても、録音担当、アレンジャー、トシさん、それにベーシスト、マスター(プロデューサー)、あとどなたか分からないけど立ち会っている人、という6人もの方々が興味津々で見ている目の前で(というか、ダンボ状になっている耳の前で)、しかも録音するのは自分だけ、という状況。これがいわゆるオーバーダビングのための録音作業では当たり前なんだろうけど、そういう状況でやるというのは、何ともチャレンジングなんだよ。スタジオに入ったのが何年かぶりであまり慣れていないんですよね、こういうのは。

宅録DTM状態で、自分の好きなテイクが録れるまで何度でもやり直すというのは、楽だったね、実に。懐かしいよ。

しかし、あんなボクを暖かく迎えてくれて、「辛抱強く」付き合って頂けたのは、よかったっすよ、昨晩は(く〜っ!)。

貴重な「通過儀礼」に感謝します。APIAの皆さん、そしてトシさんに。

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