タルコフスキー「映画論」へのメモ

これも長い前文のようなものに外ならない。

(タルコフスキーの「映画論」へのメモ:Tarkov_supplement2.txt)

映画作家という人種は、一部の人々(あるいは思いのほか多くの人々)によって「映画という媒体でしか表現し得ない夢や題材を抱えた人達だ」と考えられている。

だが、そのような幻想は、特定の映像作品にとって正しい評価の妨げになる考え方だ。映像作品の登場は、映像という媒体が存在する以前の、遥か昔から存在している題材を、映像といういわば「総合媒体」を獲得した人間が、ようやく扱い始めたということにすぎない。そして当然のことながら映像ならではの「特殊な表現」が生まれたことは事実であって、しかも必然的なことではあっても、アンドレイ・タルコフスキーのような特定の映像芸術家が作品を通じて描こうとしたものが、「映像によってしか扱えない題材」だと考えるのは、<題材>そのものに肉薄できないわれわれの勝手な想像に過ぎないのである。もちろん、これはタルコフスキーの評価を貶めるつもりで表明する意見でも、鑑賞者各自に起こる経験そのものの真実を否定する言辞でもない。むしろそのまったく逆で、タルコフスキーこそ映像史に永久に残る映像作家であるということを、改めて言おうとしているのである。そして、それには確固とした理由があるということを。

実は、<題材>こそがタルコフスキーの作品を特別なものにしているというのが第一の真相である。そして、その意味では映像だけがそれほどに特別なものでもないのである。映像は、そもそもそれ以前に存在した文学や演劇など、あらゆる作品や表現行為が伝えて来たある<題材>に緊密につながりがある。そして、タルコフスキーのように、映像作家でいながら優れた脚本を書く人はおり、そもそも<脚本>(根本的なアイデア)がなければこれほどの傑作は創れないのである。そして脚本は、タルコフスキーの独自のものではなく、ある種時代を超えた「ユニヴァーサルな台本」というものをベースにしているのである。「キリスト教的」と言えば一面当たっているが、それは顕教(表)としてのキリスト教ではなくて、むしろ密教(裏)としてのキリスト教と関わりがあると言えば、その意味では正しい。だが、この密教に言及するならば、それはもちろんキリスト教だけの専売特許ではなくて、あらゆるまともな宗教が伝えようとしたこと、あるいは古代密儀としての宗教なのである。つまりそのようなユニヴァーサルな台本がまずある。

もちろん、タルコフスキーの才能の特殊性とは、その<題材>を扱えるだけの優れた脚本を起こす能力(<題材>を理解する能力)があったのみならず、それを映像作品として具現化する技術的なノウハウすら持っていたということなのである。

映像作家としてのタルコフスキーが、詩人の父からの影響を受けていたということは、極めて重要なことなのである。

「タルコフスキーの作った映像を意味に還元して読み解くという行為は本当の意味でエクリチュールとしての映画を観る事からは遠ざかっている」という意見がある。これはつまり、多くの映像作品の鑑賞者が作品から「一定の意味」を捉えることに抵抗を感じ、さらにそのような見方は映画の価値を狭めるものであると漠然と感じていることを意味しているのであろう。だが、こうした多くの人の賛同を呼びそうな主張の特徴とは、まさに扱われている<題材>そのもの、そしてその「意味」を知らないからこそ出てくる意見なのである。

扱われている<題材>の意味をとらえることが可能なら、それが映画の価値を狭めるどころか、映画の(いや、主題の)途方もなさに驚愕を覚えるはずなのであり、その驚愕でさえ、その主題世界への参入のほんの入り口に過ぎないことが分かろうものなのである。

そもそも<芸術>の名に値する諸作品は、課題を提起し、その課題を囲んで人々を結びつけるためにもある。だが、鑑賞者の数だけ理解や解釈があるという今日的な「鑑賞者の自由」とは、人を同じ問題のもとに集合させるという芸術のひとつの機能を過小に評価している証拠でもある。あれほどの苦労をしてタルコフスキーの伝えたかったことは、「見る人の数だけある」と考えていいはずがないのである。

「作品は鏡である」というその深遠なる意見に反映していることの真相は、はたして単なる鑑賞者が耽溺しがちな自己愛ではないと言い切れるのだろうか? ここで語られていることは、実は「解釈」論でさえない。それは、たったひとつのことである。タルコフスキーには伝えたい確固としたテーマ(<題材>)があったということ。そして、その伝達に寿命を縮めるほどの精魂を注いだということである(あたかも『ノスタルギア』におけるアンドレイのように)。そしてその「題材」はそのような超人的な努力を払い、人々に問題意識を喚起するだけの「価値」のあるものであった、ということである。

現実としては、哀しいことだがその意図した内容は、おそらくほとんど伝わってもいなければ、「理解したり、共有したりできるはずのないものだ」と多くの人が思い込んでいる。それが筆者には悲しい。こうしたあまねく共有される「寛大なる理解」、すなわち鑑賞者自身による「多義性への寛容」という現実への、ささやかな抵抗の試みなのである。そして映画(に限らず芸術一般)には「見る人の数だけの解釈と理解があってよい」と考え、それこそが「芸術の胆」であると考える「自由なる鑑賞者」からは、それを傲慢だと受け取られる危険性を孕んだ考えでもある。

Leave a Reply

You must be logged in to post a comment.