最高裁判決への戦い方

憲法違反の行為を平気で成す政府、憲法違反の判決を平気で下す最高裁。こうした厚顔無恥な権力者たちのトレンドは、どうやら日本だけの専売特許ではなさそうだ。むしろ日本国の政権が宗主国として崇め奉っているアメリカ合州国でこそ、全体主義への零落は明らかなのかもしれない。だからこそ属国日本も何のためらいもなくその宗主国の傾向に習っているのかもしれない。だが、決定的に違うのは、その権力者による憲法違反への人々の反応と対応である。

当然のことながら、合州国では私有地の政府による接収というのが憲法によって厳しく制限されている。一方、憲法修正第5条の例外規定によって「公共使用のための例外を除いては政府による個人財産の接収は禁止」という表現がなされている。

だが、ここへきて所有権護持を主張する活動家を怒り心頭させる連邦最高裁判決が下され、大いに物議をかもしている。米国の新聞などで報道されているが、その判決によれば、橋や高速道路などの公共プロジェクトに限らず、「スラム」化した地域の「浄化」や土地の再配分という名目でも私有地の接収ができるばかりか、「公共目的」の中に、不況に喘ぐ地域に仕事をもたらすならば「私的企業が土地の買収開発をする」ことを州政府命令で実行することが含まれる、としたのだ。

コネチカット州において、私企業が開発するオフィスビル建設のために土地を追われようとしている住民が、明確な「公共使用」でない開発事業のために土地を立ち退かなければならない理由はない、と当然の権利として訴えていたケースに対し、連邦最高裁が、公共の利益にかなっているので「公共使用」であると解釈できると判断を下した訳である。これは今後、どのような土地でも、現時点で生み出している以上の利益を生み出すプロジェクトによってより多くの税収が見込まれるとすれば、私企業が自由に、何の制限もなく人の土地を接収できるという最悪の判例を造ってしまったことを意味する。当然のことながら「貧困層」や「高齢者」が住んでいる宅地自体は、オフィスビルや工場ほどの「利益」を生み出さない。当然だ。私の住んでいるアパートは、私が住むことによっては私の払う家賃しか生み出さない。こうした人々の土地は、金を持つ人間が望むなら、州政府命令でいつでも私企業にそれを売り渡さなければならないわけである。ここで財産権の侵害を禁止する憲法の理念がねじ曲げられるという一歩が踏み出されたわけである。

CNNの記事

Washington Postの記事

この判決に敗訴した住民のみならず、この最高裁判断を「重大な憲法違反である」と反応した数多くの人々がいる。当然の話である。

この最低の最高裁判決を下した一人であるスーター判事の住むニューハンプシャー州 34 Cilley Hill Road という地所を州政府指導のもとに接収した上で、買い取り、ホテルを建てるという計画を立案したのだった。そしてそのホテルはウェア市の当局にスーター判事がそこに住み続ける以上の経済的利益を作り出し、市はより多くの税収を確保するだろうと伝えたと言う。

天才的な活動家、Logan Darrow Clements氏の計画によると、ホテルの名前は「The Lost Liberty Hotel: 自由喪失ホテル」で、ホテル内には「Just Desserts* Caf?」というウィットの効いた名のカフェをしつらえ、公共に開かれた博物館まで付随させるというものらしい。博物館ではアメリカに於ける自由の喪失をテーマにした常設展示を行う。そして普通のホテルによく備え付けられているギデオン協会の聖書の代わりにリバータリアンのアイン・ランド女史の小説『肩をすくめるアトラス』を置く。

* やったことへの当然の報いとして与えられる「デザート」。行動にふさわさしい末路として行為者に与えられるもの。当然の結末。

これは新たな戦いの始まりだ。もし公共の利益になるという理由で私的企業が他人の財産を接収できるというのであれば、ブッシュ大統領やチェイニー副大統領の私邸を私企業が買い取ることもできる。こうした闘うための基金を募って公共の利益のための「買収」というリベラル活動家による<合法的>な動きはあちこちで起こるであろう。なぜなら、連邦最高裁が下した判決という「お墨付き」があるからである。最低の判決に対する最高の抵抗である。もちろん予断はゆるさない。裁判所が三権分立の理念を平気でねじ曲げる理念無き輩の集まりであるとすれば、大物政治家や裁判官自身の私邸を接収の対象にすることなど、容易には認めないだろうからだ。だが、こうした抵抗に遭うことこそ、彼ら権力者が「やったことへの当然の報い」「当然の結末」なのである。

freestarmedia

確かに憲法というものは「文章」であって武力も警察力も持たないものである。おそらくこのように何の強制力も持たないから権力者は好きなことを始めているのかもしれない。だが、そうした新自由主義には倫理もヒューマニズムもない。理念や理想に生きるものが<人間>である以上、憲法を平気で違反できるその心は人間に属するものではない。

以前なら、憲法という「文章」そのものに対する畏敬の念というものがあった。それを勝ち取るのに抑圧と闘争のプロセスがあったからだ。憲法を単なる文章だとしか考えないとすれば、それは思想の敗北(人間の「考える力」というものを過小評価するもの)であり、権力者の堕落であり、次なる<時局更新>への引き金(口実)を敵(われわれ)に引き渡すような恥知らずで無知な行いなのである。つまり法律自体が遵法しているかどうかを測るための、保守も革新も、どちらの側も無条件に守らなければならなかった超法規としての憲法は、それを生み出した合州国でこそ死文化しつつあるのだ。

だが、それに対して戦う方法を編み出すのも、かの国のヒューマニストたちの着想であり、工夫であり、実行力なのである。

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