「書くこと」は「音楽すること」と比肩できない

私がものを書くのに熱心なのは、もちろん書くのが(喋るのが)好きだという「気質」のせいだと言うこともできる。だが、それは一面的で、一方で、「ダテや酔狂でやってるんじゃないぜ」という気概もあるし、使命感もある。文章の大半は、「書かないで済んだらそれに越したことはなかった!」という思いも強く、それがむしろ書くことの前提だ。つまり、「この世のあり方」に対する自分の反応であり、怒りの感情もあり、また不条理を「不条理だろ!」と言わないでいることに我慢ができないから、というのが書く理由である。これは権利だけの問題ではなくて、「(少しでも何かを)知っている者」の義務でもあるのだ。私がこんなことを書かなくてよい世の中になればその方が良いのだ。でも、そうはいくまい。

だから、私が書くという行為を、「そんな時間があったら、練習したら? ○○したら?」というのはぜんぜん見当違いな見解なのだ(だれも言っちゃいないって?)。それを言うなら、まず、私は練習をしているぞ、と言っておきましょう。それが最初の見当違い。第二に、どこぞで火災が起こっていて火の粉がこちらにも飛んでくる、しかもどんどん延焼しているぞ、という状況のときに、「練習したい」もないだろう(だからこそ、練習だと言うなら「練習したい」じゃなくて、練習「すれば」良いだけのハナシだ。)

「私が書く」というのは、火の粉を払う行為なのだ。世界は燃え始めている。みんなで24時間3交代で絶え間なく消火活動をしたって収まらないような状態になっている。それでも自分の休憩時間に、真っ黒いすすのついた顔のまま、酒でも飲みながら、ギターをかき鳴らしてみんなで歌おう、というような瞬間があってもいい、とは思う。練習していて、その間に焼け死んで良いと言うなら、それは一つの閉じたヒロイズムだし、それならそれで立派だ。でも、消火活動しながら時として自分の笛を吹く、というのが私のおかれている状態だと言っても良い。

実際問題、書かねばならないこと、言葉にしておかなければならないこと、などいくらでもあるし、そのために自分の持てる寸暇を惜しむという生き方だってあるのだ。

それよりも断っておきたいのは、一見私は「書いてばかりいる」ように見えるかもしれないが、とんでもない。書くのと同じくらいの時間を掛けて本を読み漁るし、人とも会うし、ライブにも力を入れる。練習もする。そして映画さえ見に行く(それが<文学>である限り)。そして何よりも、飯を喰うための仕事に膨大な時間拘束されている。それでもなお、「忙中閑あり」で、15分でも手がすけば、その時はもう何かを書いているのだ。10:30pmを過ぎれば練習したくてもできない。拘束されている時間に手がすいても笛を吹く訳にはいかない。だが、電車を待っている時の5分、乗っている時の15分、昼休みの30分、風呂が沸くまでの10分、寝床に就いてから眠るまでの10分、と、バラバラに分断された時間の間隙を縫って「書く」ことはできるし、読むことはできる。

そして実際に、そういう「涙ぐましい努力」の上に私の文章はあるのだ。ということを知ってほしい…と言うか、思ってしまうのである。

とにかく、われわれには時間がないのだよ。

と、これを書くのに10分ほどしか掛かっていないのである。(信じがたいかもしれないが。)

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