「鍵」の鍛造:あるいはエリアーデとの「再会」

エリアーデ日記を再び読み始める。3年以上の年月の経過の後に、暫く経っていたが、ようやく「下巻」を入手していた。そして類まれなる(私が「福音」と呼んで憚らない)「友人」との出会いで、エリアーデ熱が再燃してきたからだ。ページを繰るごとに感動。感動の毎日。自分だけではないという実感。終わらなければいいのにと願う。先天的に賦与されている威光、あるいは後天的に培った権威を通してでなく、自己のための控えめな備忘録の中に、真実の言葉の数々がある。

「人の日記」を読んで起こるこのような感動とは一体何なのか。翻って、自分の「日記」は人に感動や熱を与えることがあり得るのだろうか。聖的知識の徹底的な俗化の霧が全世界を覆う前に、私の文章はたった一人の心ある人間にすら到達することができるのだろうか?

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エリアーデが何を観ていたのかが分かるという実感。それは、次のようなわずか数ブロックの「断章」からも判断できる。

1959年8月9日

歴史的現象の社会—経済的説明は私にしばしば腹立たしい簡略主義の所産であるように思える。この凡俗さの故に、独創的創造的精神はもはや歴史に関心を持てないでいる。歴史的諸現象を下位の<<条件づけ>>に還元することはそれらから範例的意味を丸ごと排泄してしまうことである。かくして人間の生活において未だに価値と意味を有している全てのものが消え失せることになる。

1959年10月22日

神話、儀礼、象徴に隠された意味やメッセージの開示に必要な解釈学はまた、われわれが深層心理学や、来るべき、われわれが<<異邦人>>、非西欧人に取り巻かれるだけでなく支配される、時代を理解する助けともなるであろう。<<無意識>>は、<<非西欧的世界>>と全く同様に宗教史の解釈学によって解読されることになるだろう。

1959年11月3日

科学は、<<脱聖化>>され、神々が空になった自然なしには可能ではなかったろう。それこそキリスト教のしたことである。キリスト教は個人の宗教的体験を強調したが、そうすることを強いられたわけではない。というのもキリスト教にとっても宇宙は神の創造物であるからである。しかし歴史的時間、不可逆的持続が勝利を収めた瞬間から、宇宙の宗教的<<魔力>>は一掃された。自然には異教の神々が住みついていたが、キリスト教は彼らを悪霊に変えてしまったのである。かくの如きものとしての自然はもはやキリスト教徒の実存的関心の対象とはなり得なかった。東欧の農夫たちだけがキリスト教の宇宙的次元を保存してきたに過ぎない。

1960年1月26日

長い神話時代と短い歴史時代の後、われわれは生物学(経済学)的時代の入り口にいる。人間は白蟻、蟻の条件に還元されることになろう。それがうまく行くとは私には信じられない。しかし、数世代の間、あるいは多分、数千年の間、ひとびとは蟻のように生きることになろう。

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その<劇的体験>の扉を開くには、「緩慢」でいつ終わるとも知れない作業が必要である。だが、その体験そのものは、劇的かつ爆発的なものであって、緩慢な体験ではありえない。あくまでも自分の実体験による憶測だが。

如何に退屈かつ緩慢な動きを経ての体験であったとしても、その体験自体は、爆発的なのだ。何故なら、それは「扉を開ける」という表現こそふさわしい出来事であるからだ。扉が開いた、というのと閉じているというのでは、「全か無か」の違いがある。開けばこちらにどっと光が流れ込んで来るのである。

誰もがどのような扉を開けられるのかを知らずに時間を掛けて「鍵」を鍛造する。そして、あちらにもこちらにも出来かけの「鍵」を置き去りにして、鍵を作ったことさえ忘れる。「鍵」を作る行為自体は、知的でかつ根気のいる仕事である。しかしそれが完成可能な「特有の形」であることを、作っている本人が知らない。まさかその鍵を穴にねじ込もうなどと想像もしない。だが、「鍵」を作るのだ。

一方、鍵穴は世界のあちこちにあって、われわれの関心が「いつ向くか」と控えめに待っている。そして、それぞれの鍵穴(錠前)にふさわしい鍵がある。

錠前の発見、鍵の鍛造(あるいは鍵の発見)、解錠、そして開扉。

開扉までは根気のいる地味な作業だが、開扉自体は、どうしたって劇的にならざるを得ない。

その驚きの経由は、臨死の体験・奇跡的な生還、などの体験にも匹敵するような、その後の人生を根底的に変えてしまうダイヤモンドの原石を手に入れることに等しい。問題はそれをどう磨いて作品にしていくのかということに尽きる。もしあなたが「表現者」「創作者」、あるいは「芸術家」であるのなら。

そして、<感動>は、断じて創作行為に先立つ「行為」なのだ。

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