誰が「主義者」か?
私が使った「主義」用語一覧 since September 2004

つい先頃、ある親しい友人から、私の文章にはたくさんの「○○主義」という言葉が使われていて、それは他ならぬ私自身がいろいろな硬直した「考え」に凝り固まっていることを表しているのではないか、ともとれるような興味深い指摘を受けた。直ちに私の直感はそれが当たっていないと判断したが、惜しむらくは、それをその場で「論証する」ことができなかった。もちろん、批判する以上、それを指摘する本人がきちんと「論証す」べきところなのだが、それをせずに、なーんとなく全体的な印象を喋っただけのことなのだろうだから、まったく意に介さずにいるべきだったのかもしれない。だが、ちょっと悔しいのと、その認識を訂正しなければ、「なーんとなく」の印象をそのままずっと引き摺ったまま私の文章に接する(あるいは接しなくなる)可能性が否めないので、私の方から自己弁護することにした。

まず、これから続く長ーい「反証」に突入する前に、その種の主張に対して私が一言で何か言えることがあるとしたら、以下のことである。

「主義」に反対/反論するには、それに言及しないわけにはいかないだろ

ということである。それで終わってもよかったのだが、以下、どれだけその指摘が的を得ていないかを示すことにする。ある種の遊びだと思って始めたのだが、それをやったら却っていろいろなことに気づいたので、「怪我の功名」として、このblogで公開する。


ここでは具体的な「論証」が問題となるので、あえて自分の「entee memo blog」から、どれだけの「主義」という単語が見出されるかを、まず実際に抜き出す。データベース化された文章というものはまったくもって便利なものである。簡単にblogの検索機能によってはじき出せるのだから。

以下が私の言及した「○○主義」の一覧である。17項目の「主義」が検索された。それ以外にも主義という言葉が2、3出てくるのだが、それらは書籍のタイトルの一部(『寝ながら学ぶ構造主義』2005-07-28)であったり、他の著者による著述の引用なので、適用外とする。昨年の9月以来、10ヶ月でおよそ180のエッセイ(というか「メモ」)を書き残したのであるが、その中から17の「主義」という言葉が出てくる。これは果たして多すぎる数と言えるのだろうか? 平均して10のエッセイにつき1回の割合である。ただこのような「統計」はあまり意味をなさないので、具体的にそれぞれの「主義」というものがどういう文脈で言及されているのかをひとつひとつ見ていく。

それが私の「ものの考え方」の偏向を如実に物語る適例と言えるのかどうかが明らかになろう。

平和主義 2004-09-26

>> 平和主義を「感情論」の一言で嗤う者は、文明活動でいかに遠大な目標を目指す者でも、最終的にその目的が人間の感情に帰着することを無視して、その目的(人類の幸せ)の達成を論じることに過ぎず、そのような感情を無視しての論陣など、完全に無意味であることを知るべきなのである。まったくもって、感情論とは本質論なのである。

■ コメント:ここで言及される平和的「哲学・思想」を「平和主義」以外の言葉で置き換えられるとは思えない。

反宗教主義 2004-10-21

>> ヨーゼフ・ロートを語る[2]今回は、「衒学者の回廊 2004」の方に拙論をアップ。 反宗教主義への論駁を兼ねて...。 あらためて、「宗教は阿片」なのか?

■ コメント:いわゆる科学だけの偏向的信奉者への反駁のために、敬愛するヨーゼフ・ロートのある記述について言及した。「宗教」と名のつくもの全てを否定してかかってくる「科学を至上のものと考えてそれの告げるところだけを遵奉する」唯物論者の傾向。他の言葉で置き換えられますか? 反宗教主義という言葉を使わずにそのことに言及しようとしたら、かえってより冗長で読みにくい文章になる。

原点忠実主義 2004-12-11

>> 自伝などを基にした作品はどこまで脚色ができるのか? ここには監督や脚本家の倫理とかを問いただそうというような無粋な「原典忠実主義」を披露するつもりはないのだけれど。

■ コメント:う〜ん。確かにこれは敢えて使わなくてもよかったかもしれないけど、「原点忠実主義」なんて、読んで字の如くで大して難しい概念でもないよね。それを見て何のことを言っているのか皆目見当がつかない人というのは、おそらくこの文章のどこを読んでも「解りゃあしない」だろうな。敢えて言えば、「映画などを作るに際して、原著に書かれている通りに忠実に脚本化しなければダメだと考えること」だよね。長いな。

教条主義 2005-02-01, 2005-07-08

>> 「協会」や「学会」なるものは、総じて警戒すべき対象なのだ。それは分野の多様性や個々の独自性をまったく単純化して言葉で語られることだけを抽出して終わらしてしまう教条主義に至る道なのである。その果てにあるのは、「権威」を必要とする資格を持った一群のプロをこしらえるだろう

■ コメント:音楽療法の国家資格化にまつわる問題に言及してのenteeの「協会」や「学会」なるものに対する基本的見解。これも、私がその「主義者」であるということではなくて、そのような傾向を持つと考えられる人々への批判という文脈だから、他に表現のしようがない。「主義」を批判する人自身が「主義」という言葉も使えないとなれば、正しい批評精神というものが開花するはずがない。「主義を否定する人は主義という言葉も使ってはならない」としたら、それも新たな「教条主義」ですね。

精神主義 2005-02-2

>>「かたちから入る音楽」を批判的に捉えている音楽家というのは、当然あるべきイメージがわれわれに内在したものであるべきだ、と言うある種の精神主義によって支えられている。

■ コメント:これは語っている題材が決して簡単なことではない。この文章を含む全体が、音楽における「精神主義」というものにどんな類のものがあるかを、考え得る限り上げていくという作業だった。しかも、これについても自分のことではなく、表面的な精神主義を懐疑するという内容なので、自分に関することには相当しない。

霊的精神主義 2005-02-2

>> 霊的精神主義は、限られた数の儀礼通過者が、自己の存在価値を自己の作り出す音楽そのものから得ようとして得られない場合の「頼みの綱」とする、いわば選民意識(エリート意識)の様なものとして働く。おそらくたいていの場合、そのような意識を芽生えさせる本人は、そのことに無自覚なのである。

■ コメント:うわー、こんな単語を使うと一部の人を除いては人を尻込みさせるだろうな。でもそれは正常な反応だよ。なにしろ他ならぬ私がそれに懐疑している(もっと正確に言うと、その世界を懐疑しているのではなくて、それを日常的な行動規範としている人々の一部に見出される「精神性」に懐疑を感じる)のであるから。これも読む人には難しく感じられるだろうな。でもそうした多くの人々の中に巣食っているかもしれない無意識の(あるいは無自覚の)傾向を掘り起こしていく中で出てくる用語なのだ。他に言いようがあるまい。

反ユダヤ主義 2005-02-25

>> われわれは敵だと思う相手を、自らの心が招いたものだと省みることがあるだろうか? 在日朝鮮人が怒っているのも、ユダヤ人がこれほどまでに力を付けて反ユダヤ主義に対するアンチ「反ユダヤ主義」を伸長させたことも、歴史上なかったかもしれない。こうした一切が、われわれとわれわれ以外という分け隔ての心が生み出したものだという反省があるのか? 

■ コメント:反ユダヤ主義というのも実によく知られた一般的な社会現象だよね。その言葉自体を禁止するよりも、その言葉を含む以上の文章が、果たして「単なる観念」に属する抽象論だろうか? これは具体的な我々の住む社会の問題で身近なものではないだろうか? 単語の運用を批判するのではなくて、私の書いた内容に批判の余地があるかどうか検討してもらいたいのである。それがよい読者である。

全体主義 2005-03-11

>>「伝統」的な国家観やfamily valueというものを、ひとつのパッケージにして十把一絡げに肯定するというやり方は、国家や社会を全体主義に持っていこうとする支配者にとっては、やり易い常套手段であろう。

全体主義 2005-06-29

>> 憲法違反の行為を平気で成す政府、憲法違反の判決を平気で下す最高裁。こうした厚顔無恥な権力者たちのトレンドは、どうやら日本だけの専売特許ではなさそうだ。むしろ日本国の政権が宗主国として崇め奉っているアメリカ合州国でこそ、全体主義への零落は明らかなのかもしれない。

■ コメント:2005-03-11の方は、敢えて言うなら、「支配者」というよりは「権力者」「政権」と言った方がよかったかもしれない。言うべきはそれくらいかな。生産的人間でなければならないという強迫観念や圧力も、無言の全体主義の存在の帰結でしょう。こうした我々の住む世界の根源的な問題を、その言葉を使わずに語るとしたら、「詩の言葉」に頼るしかない。この題材に限って言えば、私が詩人でないと言うその批判は甘んじて受けよう。

民主主義/反民主主義 2005-03-11

>> 古いか新しいかではなく、「なぜ民主主義が良いのか」という根本原理から語る準備ができていなければ反民主主義という反動がもはや反動としても認知されなくなり、やがて「新しい考え」となってしまった暁には「民主主義はもう古い」という乱暴なほどに単純な断定によって「相対化」されてしまうに違いない。

■ コメント:これは、自分が本当に相当な切実さを持って実感している「単純な論法」への危機感だ。これはきちんとした民主主義論ではなくて、「新しい/旧い」という判断で、過去の歴史を通じて築いてきた、ある種の思想的価値を簡単に否定してしまう単純な言説の典型であり、「そうした物言いに与するのは止めよう」と呼びかけるエッセイの中で出てくる一文である。言うまでもなく、「民主主義」という概念をそれ以外の言葉で置き換える必要が、この文脈であるのだろうか? ない。

キリスト教原理主義 2005-03-15

>> 聖書を一部引用してそれを「作品化」した映画『Passion』は、その点ではキリスト教原理主義者を喜ばすような体裁にはなっていても、聖書自体を正しく参照していないという点で、すでに原理(原典)主義的アプローチからもほど遠いのである。

■ コメント:おー、確かにゴツゴツした文章だな。申し訳ないね。どのメジャー宗教の中にもいる「原理主義者」。映画『Passion』は、そうした原理主義的なキリスト教徒を喜ばすような単純明快で邪悪な意図のある映画だという、いわばちょっと極端な映画評。そして、そうした原理主義者を喜ばす映画自体が、全然、本当の意味での原典主義でさえないという矛盾に言い及んだ場面。

植民地主義 2005-03-30, 2005-03-31

>> 支配されるということがどういうことなのか、被支配者側がどのようにそれを感じるのか、という視点や想像力が完全に欠如している。というか、そうした欠如こそが植民地主義(コロニアリズム)を可能にするのだ。

>> 旧日本軍や財界が朝鮮半島や満州でしたことは、西欧列強の植民地主義と(その植民地政策による後遺症で今日も苦しむ)多くの新たな独立国がかつて体験したこと、現在でもし続けていることと同じものをアジアにもたらしたのだし、支配者側に都合の良い独善的な差別感情や自国民の一方的な優越観が支えた思想の結果だった…

■ コメント:まさに自分自身にとっても耳新しい「ポストコロニアリズム」の思想に触れたために出てきた用語。

 今回これを読んでいて改めて思ったのは、「植民地主義者」が、何らかの思想や主義にコミットしていることには無自覚だろうという意味では、「植民地主義」などという「思想」も「哲学」も、実は、存在しない。したがってそれを「主義」と呼ぶのが適当なのかも実は正直言って解らない。何故なら「植民地主義」とは、ある時代の「思想上の」と言うよりは、「行動上の」潮流だから。したがって本来それを「主義」とか「主義者」と呼ぶのは可笑しいのかもしれない。でも、行動こそが思想行為以上にその人間性の本体を反映するという考えを採用すれば、かなり多くの無自覚的な人間の動作/所作が「主義」の名の下で批判できるかもしれない。これは発見だぞ! ありがとう!

ロマン主義 2005-04-09

>> 近代以前は、ほとんどのアウトサイダーがこれまで芸術家であることを見出されずに、世界に対する居心地の悪さ、あるいは明確な憎悪の中で、生き延びたり死んだりした。そして、今から見れば、彼らのほとんどが、歴史に省みられることもなく、アウトサイダー(ロマン主義者、あるいは敗北者)として終わった。

■ コメント:ロマン主義。これは深い言葉だな。よく使ったな、こんな言葉! これはenteeが高校時代とかを通じて一時読み漁ったコリン・ウィルソンの主張の「受け売り」だということは認めよう。だが、それはもはや当たり前のことになっていて、そうした基本を前提としての話というのはもっと遠くまで到達している、今日は。

印象主義 2005-05-06

>> 手にパレットを持つ自画像。解説によると、このパレット上の「絵の具が、色彩を混合することなく用いられた」形跡を残しているのであり、それはつまり印象主義や新印象主義の影響を物語っているらしい。

■ コメント:美術用語。

全体主義 2005-05-17

>> 自由への外的な脅威から逃れ、全体主義的に堕する世界に背を向けて、あるいは、それに反旗をさえ翻しているにも関わらず、自由獲得のための闘争と個性保存のために集った人々が、知らず知らずにその内部的な教義に従うという非民主的な(不自由な)選択を採っているかもしれないという矛盾…

■ コメント:これはまた難しい「もって回った」言い方をしているな(笑)。でも、身近に起こっていることなんだよ。「精神の自由のため」と称して、「自己探求」とやらに夢中になり、そのあげくグルを見つけたり(仕立て上げたり)、精神的指導者や神秘主義者と出会うや、その人に自分の自由を進んで売り渡すのだ、ということを言っているんですよ。身に覚えありませんか? ニューエイジャーの皆さん!

順応主義 2005-05-06

>> その殉教者のイメージというのが、「精神を病んだ不幸な画家(殉教者)に自分自身を重ね、ファン・ゴッホの名を借りながら、世間一般の順応主義に対してあらん限りの怒りをぶつけた(アイテルト著)」らしいアルトーのように、ある創作家に対する評価が私怨によるものが幾分でもあるのだとしたら、私はそれをそのまま字義通り受け入れることはできない。

■ コメント:この言葉は私の引用したアイテルトの言葉の一部である。「順応主義」という言葉が理解できなくても、ここで言っている私の主張の「意味」は、理解できると思うんですけど。ちなみに最後の行の「それ」とは「不幸な画家」とか「殉教者のイメージ」のこと。

差別主義 2005-06-17

>> 必要悪を口にする者は、「悪」を「必要」によって免責できると考えている。悪に対する根本的な無理解、あるいは悲惨への想像力と感受性の欠如がある。そればかりか究極的には根本的な差別主義の発露に他ならないのである。

■ コメント:「必要悪」=「差別肯定」という当たり前の話。でも、これは名文だと思うね、自分でも。

新自由主義 2005-06-29

>> 何の強制力も持たないから権力者は好きなことを始めているのかもしれない。だが、そうした新自由主義には倫理もヒューマニズムもない。理念や理想に生きるものが<人間>である以上、憲法を平気で違反できるその心は人間に属するものではない。

おおーっ。これも随分強い文章だ。新自由主義を知らない人にとって「それはどういうものだろう」「自分で調べてみよう」と思わせる文章になっていませんか?

結論から言うと、「主義」という言葉を私が使い過ぎているというのは、全く的を得ていないentee評である。むしろ、enteeは「教条主義」を代表とするようなあらゆる凝り固まった「主義主張」に対しての批判を展開するために、それらに図らずも言及しているに過ぎず、あらゆる「主義」から自由であろうというenteeの基本的態度を見誤った言い方であると思えるのである。それよりも逆にenteeにそれを言った本人が、「主義」というもの全般に対して、何らかの私的事情や個人的怨嗟のようなものがあって、それに過敏に反応しているというのがあるのではないかと想像さえしてしまうのだ。もしそうだとすれば、「主義」に噛み付いてあらゆる文章を書いているenteeと大同小異なのである。違いはそうした傾向に対して自覚的か(言語化できるか)どうかということである。

あるいは、彼の評したことが「全く別の何か」を指し示しているということならば、検討可能である。そのためにはもう一度、それがどういうことなのかを、私が解るまで噛んで含めるように説明して頂かなければ、議論にならないのである。

そして、私の耳はいつでも開かれていている。

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