聞こえているものの先に、聞こえないものを聞こうとするする思い」に報いること。

うーむ、あっちでもこっちでもツナガって、「タコ足配線」地獄じゃ!

我が畏友、ランドスケープ実践家 兼 風景批評家 兼 GPS地上絵師の石川初のblogに、なんとも刺激的で、あたかもボクに対して「読め」と発信してきているような、ひときわ目を惹く題名あり。

『「見えるものの先に、見えないものを見ようとする思い」に報いるということ。』

今回石川が「孫引き」引用している加藤典洋の風景論というのに「足を止め」て思わず読み入ってしまった。ここでそっくり引用すると「曾孫引き」になってワケの分からないことになるので、このblogをお読みの方は、そちらで読んで頂きたい(だってそういうのが簡単にできるのが、ネット技術なんだから)。音楽についても多重にこの「エンガージュマン」と「デガージュマン」が適用されそうなことに気付く。ただし、今回はそう簡単に当てはめられない事情もある。

それは、人間の恣意が関与しない前提としての「風景」と、人間の恣意が関与するのが前提としてある「音楽」が、容易に同列に語れないという社会通念上の事情があるからだ。しかし、それでも、コトを見る目の高さ(心理的レベル)を変えてみると、それが適用されうる「断面」が、音楽においても浮かび上がってくるという興味深い事実にも思い至った。

いつものように、石川の「孫引き」に代入して適当に文章をアレンジする。(最近、代入が好きだな、ボク…)

まず最初の方は、「音楽内部についての話」として読む方法(必要)がある。たとえば下などは、容易に理解できる適用例だ。

>> 眼前にある様々な音のパーツのひとつを対象として注目している限り、「音楽」を聴いているという意識が生じないのだった。<<

実際問題、極端な例だが、聴者がオケのメンバーだったりすると、他のオケを聴いていても自分の普段担当している楽器のソロとか、あるいは内声部を選択的に聴いていたりして、全体として(作曲家の意図している意味での)音楽を聴いているという感じの体験とは違ったものになってしまう(もちろん、鑑賞の達人になってくると、そういう普段なら聞こえにくい声部を「耳」が抜き出して、セカンド・ヴァイオリンやヴィオラパートを楽しむなんていう“倒錯した”音楽の楽しみ方もある訳だが…)。そんな、極端な例を挙げなくても、案外よくあることなんではないだろうか。つまり、“「音楽」を聴いているという意識が生じない”というのは、言ってみれば「音楽鑑賞以前」の状態という訳である。

>>(だから、純粋に音楽の全体を「全体」として楽しむなら、)ひとつひとつの対象(楽器のひとつひとつの音やメロディーのひとつひとつ)へのデガージュマン[身の引き離し]があって、そのデガージュマンがそのままアンガージュマンを形成するような瞬間に「音楽」は聞こえてくる。したがって、ひとつひとつの楽器の音やメロディーではなくて、音が一旦「音楽」として聴かれ始めると、今度はそれ自身(作品全体)が注目されるもの、聴くことの対象になる。<<

ふむふむ。ま、最後の方は当たり前の話では、ある。音楽を全体として「一つの構造」として聴き取る、ということが、まさに「音楽を聴く」態度であり体験だからだ。だが、こうした言い方が成立するのは、ここまでだ。

>> こうした「音楽」の成立のうちに、・・・・・「音楽」は消えるのである <<

本当に「音楽は消える」のかと言うと、音楽そのものの内部の話をしている限り、あるいは音楽そのものの内部だけに関心が注がれている限り、そう簡単に音楽が「消えて」しまうことはない。音楽はたいていの場合、特に西洋音楽の場合、通常、作曲家や演奏家は「譜面に書いた音、鳴らされるべき音、そのものを聴いてくれ」と迫ってくるからである。(少なくとも、そのように思われているように見えるな、大概の西洋音楽は!)

したがって、こうしたレベルでは、相反する二つのものを同じ「音楽」の名で呼ぶことから生じる「音楽論の混乱」というのは、あまり問題にならない。ただし、例外的に即興音楽においては、そうしたことが大いに(鑑賞にとって)課題となる[後述]。そして、ある特殊な聴者の心理状態においては、ほとんど音楽的体験と呼ぶに相応しからざる「音楽体験」というものがあるのも確かだ。

つまり、これを音楽を含んだもっと広い環境・状況というところまで拡大すると、面白いことが言えるのだ。つまり、適用できなかった最後の部分が、適用可能であり、それこそが、音楽を鑑賞する体験の中でも、最も面白い部分ということになる。

>> 聴かれることの対象となった音を「音楽」と呼ぶなら(そして事実私たちが日常「音楽」と呼んでいるのはこちらのほうだ)、この対象としての「音楽」の成立のうちに、・・・・「音楽」は消えるのである。<<

たとえば、音楽会で音楽を集中して聴いていて、あるいは静かな環境でゆったりくつろいでレコードを聴いていて、「音楽が消える」という体験を想起するのだ。(オーディオマニアが、「本当に良い音は、オーディオ装置が消える」とか言うが、そういうことに、ここでは深入りしない。)すなわち、音楽にわれわれが本当に没頭したときに、我々は本当に音楽(音)を聴き続けているのか、という設問である。素晴らしい音楽体験とは、全くもって内面的(心理的)なもので、それは「音楽自体からの感動」とは別物であることがある(あるかなぁ、みんな!)。音楽がきっかけとなって、我々は別の場所に勝手に到達してしまうからである。こうした体験さえも「音楽の体験」と同じ言葉で呼んでしまうと、確かに混乱がある。

音楽家が作り出す作品(音)までは音楽家の責任だが、それを通して得てしまう「聴く側の能動的なはたらき」による体験は、必ずしも音楽体験そのものとは限らないからだ。そうしたことが聴く側の内部で起きる時、楽器ひとつひとつの音色やメロディーは、「既知のもの」でありながら、体験としては「未知の領域」に入ってくる瞬間だ。そして、更に言うと、鑑賞者が<普遍的題材>に触れる劇的体験があるとすれば、その刹那にこそやってくるのだ!

ここからは、ふたたび石川の言葉への「代入」となる。

>> (こうした聴者の内面で生じるかもしれない)「音楽体験」をあらためて「音楽」と呼ぶことにすれば、これと区別される「それ自身が注目されるもの」としての「音楽」を、たとえば「純音楽」と呼んでもいいだろう。今日、多くの「音楽」の議論はほとんど、「耳に聞こえてくる音場空間のみを」対象として、それをいかに「われわれにとって快い知覚経験をする場」とするか、が問題にされている。<<

あるいは(別テイク)

>> (こうした聴者の内面で生じるかもしれない)「知覚体験」をあらためて「音楽的神秘体験」と呼ぶことにすれば、これと区別される「それ自身が注目されるもの」としての「音楽」を、たとえばこれまでのように(カギ括弧なしの)音楽、と呼んでもいいだろう。<<

話は脱線するが、

石川の文章:

>>「ランドスケープ」は、デザイン「できない」ものが「ある」ということを前提にする。「ランドスケープ的アプローチ」をとるなら、何よりもまずはそこに「デザインできないもの」の存在を認めるところから始める。そして、それを「デザインできるもの」に置き換えたり、覆ったりするのではなく、そういう「デザインできないもの」「コントロール不能なもの」を示唆することを目論む。<<

の部分は、いわゆる「環境音楽」「アンビエント系音楽」などに関係した主張の典型として読むことも出来る。つまり、サウンドスケープや“ジョン・ケイジアン”の立ち場だ。

「サウンドスケープ」は、(音場に)デザイン「できない」ものが「ある」ということを前提にする。音楽の領域において「“ランドスケープ”的アプローチ」をとるなら、何よりもまずはそこに、環境音、すなわちカラスの鳴き声、虫の声、風、豆腐屋の笛の音、万年物干竿屋の拡声音、子供の泣き声、自転車のブレーキの音、などなどの「デザインできないもの」の存在を認めるところから始める。そして、それを「デザインできるもの」に置き換えたり、覆ったりするのではなく、そういう「デザインできないもの」「コントロール不能なもの」を示唆することを目論む。

というわけだ。なかなか「模範的解答」となるぞ、これは。

さて、「即興」について、通常音楽と区別して語ってきた事情から言うと、最後にそれを言及しないで済ませる訳には行くまい。ここからが、やっと本番だ。

即興音楽と風景の類似性について<ことさら>に発言したくなる理由のひとつとして、それらに共通なリアルタイム性、スポンテイニアス性がある。つまり、即興音楽家たちは、集団即興においては特に、それぞれがある程度自分にとって既知の「持ち札」(特定の楽器やテクニック)を持ってステージに登場する。だが、ひとたび音が出されるや、自分という音を出す主体以外の「未知な要素」「予想不可能な要素」というのに、必然的に遭遇する。そして、本人の演奏し始めて初めて分かる「体調の認識」と遭遇する。そして、それへのリアルタイムの「対応」が求められる。大きく分ければ、そうした「未知なる要素」に対して、それを「無視して進む」というのと、それを「利用して進む」という態度の「二大選択肢」があらゆる瞬間に出現し、それへの判断を忙しく行なわなければならない。音は生き物だから、待ってくれないのである。まるで、風景のようだ。しかも、どのように無視するのか、そのように利用するのか、というほとんど無限の選択肢の中から、もっともカッコいい方法を(ほとんど本能的に、瞬時に)選択しなければならない。

無視することによって生じる二つの(三つの、それ以上の)世界の、同時的な顕現が、まるで写真の二重(三重、多重)露出のような効果を以て生起し、とてつもなく象徴的な音場を築いてしまうこともあれば、単なるやかましい雑音に堕することもある。一方、「未知なる要素」に対して、互いに利用して進むということでしか発生しない、リアルタイムに醸成される協和的で調和的瞬間が—-まるで「人生」のように—-音楽的に「意味あるもの」を構成することがある。

いずれにしても、「風景のデザイン」と同じように、他者の存在や偶然という制御不可能性を受け入れることによってしか、立ち行かない「創作」の在り方が、即興音楽にはあるのだ。

即興音楽においては、「われわれを取りまく環境のある状態・状況を指しているものであって、その状況のもとにおいてデザインという行為が表象するものと、表象が指向する対象の間に」絶え間ない緊張の関係が築かれる。

石川が…

>> そこに意味のあるつながりを見出す観察者による「風景化」の「契機」の生成を試みる。つまり、ランドスケープデザインが「デザイン」しうるのは「風景」それ自体ではない、というわけだ…<<

と、いみじくも言っているように、音楽においても(即興音楽であればとりわけ)、演奏者は、そこに意味のあるつながりを見出す観察者(音楽鑑賞者)による「音楽の風景化/ドラマ化」の「契機」の生成を試みている。つまり、即興音楽家が、「デザイン」しうるのは実は「音楽」それ自体ではない、のである。

鑑賞者がその中からリアルな「劇」、あるいは「物語」と呼ぶに相応しいものを見出す「契機」を、即興音楽家は、あるいは音楽家は、試みるのである。そこには、予定調和的な大団円はない、かもしれないし、ごくまれなチャンスで、あたかも譜面にプランされたとしか思えないような、浪漫派的な「歓喜の物語」をリアルタイムで生み出す可能性を秘めているのである。

そこにこそ、即興音楽の醍醐味があるとenteeは、考えるのである。

かくして、かの石川のオツな導きによって、数年前に『ランドスケープ批評宣言』(INAX出版)に寄せた、拙文(即興性と計画性に見る風景と音楽のアナロジー ある即興音楽家の夢想的「風景」論)は、再び日の目を見るのであった。(と、せいぜい“我庭引水”して、終わるのであったー!)


(postscript)

と、ここまで書いたが、こうしたいっさいの事情に通じていない(自覚していない)演奏者が、演奏家としてダメであるということは、全くない。かえって、何も考えない演奏の職人のような人によって、<普遍的題材>を表現しているとしか思えない音楽が実際にある。そして、逆にこうしたことに意識的であって、かつ素晴らしい音楽を作る人もいる。だから、どうという訳ではないが、「事情に通じる」ということは、音楽行為とは別にある、どちらかというと(いやらしい言い方だが)「啓蒙的な」行為とに関係があるのである。

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