エリアーデ語録 #2

植物の聖の「神秘」と結びついた宗教的観念と神話と儀礼的シナリオに、われわれはたえず出会うことになるであろう。なぜなら、宗教的創造性は、農耕という経験的現象ではなく、植物のリズムの中に認められる生、死、再生の神秘によって生み出されたからである。収穫を脅かす危機(洪水、旱魃など)は理解され、受容され、制御されるために神話的ドラマとして表現されるであろう。それらにもとづく神話や儀礼シナリオは、やがて数千年に渡り、近東の文明を支配することになる。死んで生き返る神々という神話的テーマは、もっとも重要なテーマに属している。これらのアルカイックなシナリオが、新しい宗教的想像を生む場合もある(たとえば、エレウシス、ギリシア・オリエント密儀。96節 参照)。

下線:エリアーデ自身による

太字:enteeによる

エリアーデ『世界宗教史』

「女性と植物 聖空間と世界の周期的更新」よりpage 44

この何気ない、誰にでも親しみのありそうに見える記述自体が、相当にあからさまな部類のエリアーデの主張するメッセージの中核である。その点で、この文章は無視できないほどの重要性を持っている。農耕については、「経験的現象ではなく」と強調しているところなども、いわゆる人類の農耕体験がそれを初めて見つけさせたのだ、というのではなく、植物自体の特性に注目せよと言っているのであって、メッセージ発信の点で極めて親切である。こうした植物の死と再生の神秘については、あらゆる詩人が取り上げている普遍的な題材の一つと言っても良い。特に日本においては、こうした「死と再生」のモデルとして「桜」や「梅」が存在しているのである。

ここで「死んで生き返る神々」と断っている部分についても、それが後のキリスト教に見出される「死と復活」という僅か2000年ほど前にようやく成立を見た「最も若い神話」に先立つ祖型として理解すべきであると、さりげなく注意を喚起しているのである。

蛇足で文意の本質から逸れるものであるが、「やがて数千年に渡り、近東の文明を支配することになる」とエリアーデが断っているように、農耕というものは、「近東の文明」維持のための支配的な手段だったのであり、その後の「いわゆる近東の文明」の絶対的背景であったユダヤ=キリスト教の文化が、「日本の文化と違って遊牧や狩猟採集であった」などという、バカげた初歩的な認識上のエラーは、まったく考慮の余地さえないレベルの低いものなのである。

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