ゲルショム・ショーレム再読

これがアップされる頃は、渋谷でライヴを演っているだろう。

(引用開始)

寡黙な無名の聖人たちの本質の持つ価値がたとえどれほどわれわれにとって計り知れぬものに映るとしても、宗教史というものは、彼らとはかかわりがない。宗教史は、人間が他者と交流しようと試みるときに生ずる出来事を対象とするものなのである。しかし、一般に認められているとおり神秘主義者の場合、この交流というものには一筋なわではいかないむずかしさがある。宗教史の観点からすれば多様な宗教的現象の総体としての神秘主義とは、神秘主義者たちが追い求めた道、彼らに授けられた悟り、そして彼らが閲した経験を、他の人々に伝達し解釈を施す試みにほかならない。この試みがなければ、神秘主義が歴史上に出現することもないのである。そして、まさしくこの試みにおいてこそ、神秘主義と宗教的権威との出会いと衝突が実現する。

ゲルショム・ショーレム『カバラとその象徴的表現』(page 8より)(法政大学出版局)

小岸 昭/岡部 仁 訳

この点で言うと、キリスト教団は実に「傲岸不遜」にも、あらゆる神秘主義者を生み出し、それらとの緊迫的な邂逅をもたらしたにも関わらず、それ自体は、相も変わらずその教義本体であるところの「出来上がりつつあった」聖書を、まさに字義通りに解釈する以外のことを許さず、権威の核としてこそ存続した。これはまったきアイロニーである。すなわち、その中心にどっかりと腰を据えて、その権威強化とビジネスとしての教団組織の成立・強化に邁進した教団エリートたちこそが、最も本質的宗教的体験の周縁に存在していたのであり、この錯誤的な組織存続への高いプライオリティがあってこそ、宗教そのものは人々に知れ渡るところとなったのであるし、ある程度の数の神秘体験者を集めたはずだし、あるいは神秘体験そのものを触発さえしただろう*。だが、本質的宗教体験を得た人間は、その組織の中核的な人員の世界観とは対立したし、決して中核に交わっていくことはできなかった。したがって、つかず離れずの位置か、あるいは周縁において、中央と緊張関係を築くほかなかった。そして、その緊張関係は、恒に中央の勝利、周縁の敗北によって終了されたに違いない。

* 教団自体は、まるで道家の家元のような機能を持っているのであって、象徴やあらゆる知の金庫室であったのだし、それを保存し、また伝達するというルーティーン的ではあるが重要な役割を担っていたから。

無論、こうした神秘体験者は、教団中核の意思によって抹殺されるが、何年か経って、その「名誉」を回復し、皮肉なことにこの教団の「時の毀誉褒貶の判断」によって「聖人」となる場合が多いのである。ただし、「聖人」となるのは、聖人が団体と無関係に神との関係を築いた個人であったに過ぎないとしても、そして、その「控えめさ」という理由によってこそ、尊敬を集め、特定のこじんまりとしたひと纏まりの仲間をこしらえただろうが、神秘体験者の死後、初めてそうした人々(仲間達)の影響が無視できなくなった場合に、「無名の周縁的神秘主義者」は、有名な聖人と格上げされるのである。ほかならぬ、この格付け機関たる教団中央が、彼ら「聖人」の最初の抑圧者、あるいは殺害者であるにも関わらず。

(引用開始)

一般に、神秘主義は、再三再四新しい酒を古いかめにいれようと試みる──承知のとおり、これは福音書の有名な個所で戒められている行為そのものではあるが──と言われてきた。(略)神秘主義者は、どうして保守主義者だと言いうるのか、どうして伝統的な宗教的権威の先駆者となり解釈者となりうるのか? どのようにして彼は、カトリックの偉大な神秘主義者や、ガッツァーリのようなタイプのスーフィ派教徒や、ほとんどのユダヤ教カバラ主義者たちが成しとげ得た成果を、自分でも達成することに成功するのだろうか? 答えはこうである。これらの神秘主義者たちは、伝統的権威の源泉を、もう一度おのれ自身の中から再発見するらしい。彼らのたどる道が、伝統的権威の生れ出たその同じ源泉に彼らを遡らせたのだった。(略)神秘主義者たちの方が、宗教的権威を最も厳密な意味において堅持してゆこうと努める。

ゲルショム・ショーレム『カバラとその象徴的表現』(page 9より)(法政大学出版局)

小岸 昭/岡部 仁 訳

ここで言及される「伝統的権威の源泉」とは、そもそも権威となった宗教教団の中核が、そもそも神秘体験者であった、そして今では既に過去のものとなったその「神秘的事実」を確認する言葉なのだ。だが、教団中核が保持する地位と権力を相続する後継者たちが、必ずしもその神秘的事実を内的実感(個人的現実)として理解しているとは限らない。そもそも一旦疑いなく「真実らしきもの」が、教義として打ち立てられるや、その相続者は神秘家の言葉の「そのままの保持」とその権威の存続を組織の目的とするからである。そして、それ(伝統的権威)は権威的伝統となる。そして、長い歴史の中で、その伝統の生まれ出した源泉に遡って、個人的体験を通して、「ある種の神秘」に与る少数者が何度でも出現する。それはその源泉が「おのれ自身」から再発見できるために、ある程度周期的にこのような人物が、歴史上に登場できるのである。

この神秘的経験の可能性を承認するなら、われわれの今日語る意味での祖型的表象が時代や場所を超えて繰り返し出現することの理由の一つを見出したことになる。すなわち、脳や心の働きを含めての「身体」に、こうした祖型の源泉があるということになる。さらに言えば、「身体」に源泉がある以上、表象の「交換/流通可能」な側面が、より多くの人々に対して、「それに対して注目せよ」と注意の喚起が可能であった理由も説明する。そもそも人類に共通の「身体」にその源泉があるのであれば、それは「揺り起こす」ことが可能なのである。実際、少なからぬ人々がそうした表象を通じて、半ば「自発的に」秘儀に参与できた(イニシエートされた)理由を説明するのである。つまり、交換/流通可能な外在する表象と、自発的に源泉に遡って神秘に与る内在する「表象」は、いわば二人三脚で、その体験の幾度とない復活を可能ならしめているのである。

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