<普遍的題材>への理解は世界の複層的様態を喪失させるか
(あるいは、「ある証言者の虚妄」)

今回も、コメントに対する当方のレスが長くなったこと、また参照先のリンクがコメントでは付けられないので、こちらで公開することに。

(辛抱強い対応に感謝します > ぴかたれらさん)

さて、このたびの本題:

>> <普遍的題材>が登場する,その強い普遍性ゆえに「目の前の複層的な様態が失われる」ことを恐れているのだと言えるでしょう.<<

「恐れている」ことをお認めになるこの言い方は、かなり控えめに表されたものであると思いますが、かなり最近、似たようなトーンの主張と出会ったような覚えがあります。これは、表現されたもの(作品)の解釈を巡る議論の中で出て来たものでした。ひとつの作品に対峙したとき、それが複数の受け手の中にそれぞれ異なった「解釈」が生じることを、肯定的に捉えている(捉えるしかない)方々からの意見というのが、「複層的な様態を複層的なままに捉えて、何が悪い?」と言い換えられるものであったように思い起こされます。

ここでの私の意見も、ちょっと前なら、相も変わらず、「表現者が明確に単一の意図をもって創作したものには、実はたったひとつの意味しかない。ただ受け手の方が準備できていないためにそれに肉薄できず、自分の主観的理解というものにしがみついているために、多様な「解釈」が生まれるだけだ」という極めて挑発的なもので、それを言ってしまえば同じことを言い返されて終わるだけ、の主張だったでしょう。ただ、自分の解釈が「正しい」かどうかはともかく、表現者が存在する以上、その意図はひとつである、という言い方自体には今でも(懲りずに)何の問題も無いと思っています。むろん、表現者自身が多様な解釈に対してウェルカムであれば、何をか言わんやですが

ただ、「受け手の数だけ意味がある」という、今では世間でほぼ絶対的な優勢を誇る「作品に対しての受け手の哲学」は、私の中では凡人の「開き直り」以外の何ものでもなく、哲学と呼ぶに値しない笑止な自己への「甘やかし」でしかなかった。だが、私独りが何を叫んだところで、「受け手の数だけ意味がある」のはやはり「事実」な訳です。でも事実(現実の有り様)を言葉で繰り返すところに努力も理念も無い訳で、私は「それが万人の受け入れる現実であることは百も承知の上で、それであなた方良いのかい?」と訊いてきた訳です。

芸術の価値の相対論者からすれば、おそらく相当に刺激的な主張だとは自覚しているつもりです。まあ相対論者や主観論者が百万人集まっても、その百万人の人間が主観的に作り出すものに、その深化のレベルに違いはあっても、ある種の普遍的な題材が「かいま見られる」ことがある、ということを了解した今では、創作者が何を自覚しているのか、というのは、もはや重要な問題ではなくなりつつあるわけです。自分は一見不毛な議論に時間を費やしましたが、それがより深く自覚できたこと、そして自分なりの解釈論を具体的な作品を取り上げることで表記しようと、ついに思い立つことができたこと、このふたつが得られたので私には意味があったのです。

さて、これは「その強い普遍性」についての「こちらの側」からの意見です。この強さは多様性を消失させるどころか、現にそれが成しているように「眼前に複層的な様態」をむしろ作り出している(芥川の『南京の基督』を参照)。でも、<普遍的題材>への肉薄によって失われるのは、各々がしがみついている主観だけであって、すべてが統一的な法則の中に入っているということの認識は、むしろ「歓喜」や「畏敬」をもたらすものではあっても、「われわれは独りでしかない」という誤った認識を根底から更新してしまう強さをもったものです。それに、何を美しいと思うか(何を重要と感じるか)という美意識自体は、おそらくこの発見によっても影響を受けない。私に言わせれば「失われるものは何も無い」のです。特に受け手にとっては。

その発見によって「失われた」と感じる人がいるとすれば、それは表現者の方であり、特に主観主義を教条化させて「何でもアリ」の状態を心地よく感じる現代の似非表現者の一部が「表現する理由を失う程度」のものです。あるいは、その初期衝撃をなんとか生き延びられた表現者にとっては、表現題材が決定的に「変わってしまう」だけの話かも知れません。私に言わせれば、ほとんどの人々にとって何の被害も被らないということになります。

最後に…

<< あるいはこうも言えます.「そのこと以上に「語るに値する題材」があるのか」と問われれば,「そのこと以下であっても語ることを許された題材はあるだろう」,と.>>

むしろ「そのこと以外に」と言うべきだったですね。素直に反省。「上下」のレベルに還元するのはやはり問題だし。でも「そのこと以外に」ならば、「そのこと以外であっても語ることを許された題材はあるだろう」となります。もちろん全く反論の余地がありませんね。実際、どんな題材でも現に語られているし禁止もされていない。誰にも禁止はできない。それに対する「評価」があるだけです。それぞれ自分の理解に応じて、秘儀だオカルトだ集合的無意識だと言いたい人は言い続けるだろうし、体験の裏付けの無いにも関わらず、「何かそこにはある」と思わせぶりに言う神秘家の発言も止まらないだろう。でもそれぞれにそれぞれの理解の程度に相応な「題材」を語って悪いはずが無いわけです。

最後に強調したいのは、<普遍的題材>を諒解したところで、すべてがそこで終わる訳ではなくて、むしろ、そこから始まるもの、そこから派生する様々な課題があり、それだけを採っても、充分に一生を退屈なしに過ごすことができるほどの可能性の広がりがあるということです。

これは私の体験を元に話すのですが、「一度死んで再生する」とエリアーデが韜晦気味に(しかし恐るべき正確さを以て)繰り返し表現するイニシエーション体験というものは、現実世界においても「存在する」ということなのです。もし、意味の多義性を言うなら、「一度死んで再生する」ということの二重の意味は認めてもよく、このレベルの話でならあり得ると思います。

Leave a Reply

You must be logged in to post a comment.