二つの周期のリレイ地点を想う
エリアーデ語録 #4

古代ローマの暦では二月が一年の最後の月であったため、それは二つの時間的な周期の合間に生じる、流動的で「カオス的な」状態をあわせもっていた。規範は一時、機能を停止し、死者は地上に帰ることが出来る。また、ルペルカリアの祭りが執行されるのもやはり二月で、それは「新年」によって象徴される世界の更新(=世界の儀礼的再創造)を準備する、集団的な浄化儀礼であった。

エリアーデ『世界宗教史II』「私的祭儀──ペナテス、ラレス、マネス」

page 125より(太字は引用者による)

日本の正月にも「集団的浄化儀礼」の要素が色濃く残されている。正月を「世界の儀礼的再創造」であると意識して過ごす人は、脱聖化が進行した今の日本では僅かであろう。しかし、その儀礼的傾向は今にして抜き難い強さを放っている。

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一つの混乱と終わり、そして僅かな数のサバイバー(生存者)による世界再生の儀礼は、ユダヤの伝統文化の中では、より具体的な形で生きている。その最たるものが、「過ぎ越し祭(ペサハ): Passover」である。「過ぎ越し」とは言うまでもなく旧約の「出エジプト記」で記述されている当時の覇権国家エジプトからのモーゼ率いるユダヤ民族が一斉脱出をし、民族規模の艱難辛苦を「過ぎ越し」たこと記念する行事である。だが、現在の「過ぎ越し祭」はそれを記念することを口実にした言わば「クリスマスと正月が一緒にやってきたような」(Exodus: 脱出成功を祝う)祝祭的な雰囲気を持つ「私的」祭儀と化している。しかも、どうやらそのような意味合いに変質していたのはイエスが生きた「新約の時代」にすでにそうであったようであり、その様子の一端が「福音書」の中にも見出される。

まさにイエスが磔刑に遭う「金曜日」とは、ユダヤの人々が「過ぎ越祭」を祝うための準備に急がしい「前日」であったことが分かっているわけである。そもそもイエスの刑死が「13日の金曜日」であったことなど聖書の記述に求められるものではなく、あくまでも民間伝承によってでしかない。だが「13日であった」ということの象徴的意味を解き明かす場所ではないのでここで詳述しないが、<それ>が起きたのが「金曜日」であったことには、こうした新約聖書における「過ぎ越祭」記述に根拠があった訳である(史実としてよりは、あくまでも象徴的な意味で)。そして、この二つの<イベント>(「キリストの刑死及び復活」と「ユダヤ民族の脱出サバイバル」)の「季節的一致」は、それまた偶然ではなく、こうした世界の更新が「現象世界の世界的現象」として共有されていることを意味しているのである。

さて、翻って日本における正月とは、新年が明けてしまえば嘘のような「静寂」と言うか「清浄さ」をたたえた年間でも特殊な意味合いを持つ「聖なる休日」となるわけであるが、その休日を静かに過ごすために、年末の特に「晦日」「大晦日」の2日は、上や下への大忙し、「時間との戦い」の様相を呈するものとなる。まるでこの典型的な「師走の風景」が、過ぎ越前夜(金曜日)の日没以降は「火を起こしてはならない」「火を通した食物を口にしてはならない」という厳格なユダヤの律法を何としてでも護るために、必死になって祭の食事と休日の食事の準備しなければならない多くのユダヤ人家族を思わせるほどのものである。過ぎ越後の(新年の)食事は火を加えられないので冷たい(火を通さなくても良いような)食べ物となる。それは、日本の正月の場合は「御節(おせち)料理」(という名の緊急ランチボックス)となる。それもこれも過ぎ越後の数日(正月)を静かに何もせず(仕事をせず)に過ごすことが極めて重要だという通念を共有している訳である。

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マッツァ(左)とマッツァカバー(右)

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重ねて置かれたマッツァ(上)

ユダヤの「過ぎ越し」で重要な食べ物にはセイヨウワサビの摂取などいくつかの要素があるが、その内のひとつに「マッツァ」と呼ばれる「種無しパン: unleavened bread, azyme」がある。これは、イースト菌(酵母)を入れて発酵させ膨らました通常のパンと異なりまったくふっくらしていない、さしずめオードブルのクラッカーのような実に味気ないパリパリの薄っぺらい大型パンである。これは「出エジプト」という「非常時」における辛苦の期間中、発酵させた「通常のパンを先祖達が食べられなかった」という民族の記憶を留めようという意図がある、と(家長によって)説明される儀式の一部であり、過ぎ越祭の期間中、ずっとテーブルの上に「重ねた」状態で置かれており、しかも布をかぶせてあるのである。

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このなんの変哲もない鏡餅に、「円相」「至上権象徴物」「炎(陽)」「対称」「歴史の三層構造」などなど、これから順に見てゆくあらゆる祖型的要素が含まれている。



一方どんな理由でか、日本には新年明けてしばらくは通常の「暖かい米(ご飯)を食べない」という習慣がある(伝統的にはほとんど禁止されてブレーキを掛けさせられたような感じでもある)。その代わり、餅米を使ってあらかじめ搗(つ)いてある「モチ」を食べるのである。これもおそらくもともとは、火を使わないでも食べられる保存食のようなものとして、年間でも正月の期間限定で登場する、極めて儀礼的要素の強い食べ物である。ご存知のように、このマッツァならぬモチは重ねて聖なる場所にしかるべき儀礼的期間だけ安置されるのである。

ここまで記述した上でも、ユダヤ民族と日本人との間の「不可思議な暗合」を強調するのが本論の目的ではない。安っぽい旧弊な「日猶同祖論」を展開しようと言うのでもない。この話はそのような話よりも遥かに大きなフレームの話なのである。

そうではなくて、「“年の最後の月”の“二つの時間的な周期の合間”に生じる、流動的で“カオス的な”状態」の忠実な再現が、日本人とユダヤ人の両方に見出されるということに他ならず、新しい周期の初期段階では「質素なものしか口に出来ない」という状態であったことが想像できるということなのである。そして、それは過去の何らかの「苦難」を記念するものとして出来上がったひとつの「記憶術」に関係のあるものなのである。

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