「金剛」への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<宝珠>の伝えるもの[1]

正月の茶道の家元の儀式の一つに「初釜」というものがある。年始にあたり初めて竈の炭を入れ火を起こし茶釜に湯を立てて招待した方々に茶を振る舞うというものである。もうかれこれ十年以上前の話になるが、、生まれ故郷にも関わらず、留学先から帰ってきて間もなくの、見るもの聞くものがすべて新鮮に感じられた時期に、ある裏千家の家元の開催する初釜の儀式に招待頂くというまたとない幸運に恵まれたのであった。私のようなまったくの茶の道の部外者がその世界の一部を垣間みることの許される「開かれた」会なのである。

この「儀式」の最中にいくつかの特筆すべき発見があったが、その中でも忘れることの出来ない或る「物品」がその初釜に登場した。それは「暦茶碗」と呼ばれるものであった。茶碗にはいろいろな種類があるようだが、この暦茶碗と呼ばれるものは、その茶碗の外周に暦の名前、もしくはそれに準じる文字が筆で書かれており、それがぐるっと一巡するようになっている。一年の暦が一周すると、また最初から同じ季節が巡るという円環状になっていて、「ある意味」を伝達するのに相応しい、まさにその碗の(円周の)形状が活かされたデザインとなっているのであった。

とりわけ私の目を捕らえて放さなかったのは、その暦自体もそうであったが、暦が一巡するところ、すなわち暦の「始め」と「終わり」の出会うところに描かれている特定の図像であった。それがあまりに驚嘆すべきものであったので、「一体これはどういうことか」と静々と進行する初釜の儀式の最中に思わず叫ぶ失態を演じた。

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それは写真でご覧になって分かるように「宝珠」であった。私の異様なまでの関心に喜んだホストの方が、礼を失した私の態度にも関わらず寛大にも奥からさらにいくつかの暦茶碗を持ってきて、別の茶をたてて私に回してくださったのであった。そしてお茶が回ってきた時、それらを思う存分眺めることが出来たのだった。

茶碗の形状や色、そして書かれている文字の具体的内容はさまざまだったが、どれも共通して在るのがこの宝珠の徴なのであった。それは「三つの火の玉*」のように描かれていることもあれば、一つの宝珠が炎上するように描かれているものもあって、幾分のバリエーションは認められるのであるが、時の始まりと終わりに相当するところに出現する「それ」は、どれも燃えるように描かれる「宝珠」であることは共通なのであった。

* この「3つでひとつのペア」を成している宝珠の図像についてはまた別の機会に論じるであろう。

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■ カトリック教会に於ける聖体顕示台「モンストランス/サンビーム」にも見出される炎の円相とそれを支える「台座」のパターン

それでは「宝珠とは何か」。無論その時にそれなりの説明を受けたのであるが、それがその重要な本質に触れる説明でなかったとしてもホストを責めることはできない。だがホストによれば、宝珠とは「宝物の玉(ぎょく)」であり、「憧れを以て獲得を目指すべき尊い何か」なのであった。それを聞いたとき、すぐに連想したのが錬金術において獲得を目指すべき目的物である「金」、あるいは「金」のコードで表されるものであった。大辞林によれば、「〔仏〕 上方がとがり、火炎が燃え上がっている様子を表した玉。これによって思うことがかなえられると説く。如意宝珠。宝珠。」

また宝珠は、それを炎と考えれば天空へと「上昇」するものを暗示する形状ととることができるが、同時に水滴のように捉えた場合、それは地上に向かって「下降」する何かを暗示することになる。この象徴には垂直方向への運動、すなわち「上昇」と「下降」とが示唆されているのである。それを裏付けるものとして下のような記述がある。

如意宝珠の由来には種々の説があるらしく、「仏舎利が変化したもの、龍王の頭の中から取り出されたもの、阿修羅(Asura)との戦いの際に帝釈天の武器が砕けて人間界に落ちたもの、人間の善行や良い因縁の報いとしてひとりでにできたもの」などとも説明されている。特にここで注目すべきは、この「至宝」が、帝釈天(Indra: インドラ)と関わりがあるとも伝えられていることである(金剛杵の記述:「金剛」への第一歩エリアーデ語録 #3 参照)。しかもそこには強い「武器」の暗示がある。そして「炎」との関連は、その形状や描かれ方からは疑いを容れる余地のないものである。

つまりどう控えめに言っても「それは二つの時間的な周期の合間」に配置されていて、それはまさにその「周期の合間」に生じる、流動的で「カオス的な」状態」(前出:エリアーデ)の<象徴>の元型的顕われの重要なひとつと視て取れるものに違いなかったのである。

一方、宝珠の形状というのはわれわれが最も「親しんでいる」ものとしては、いわゆる擬宝珠(ぎぼし/ぎぼうし)という橋の欄干や仏閣の屋根などに据え付けられているタマネギ(ネギの花/ネギ坊主)状の「飾り」である。この膨らんだキノコのような形を思わせるものは、実は世界各地に見出される。特に聖なる地所において。だが、日本では例えば九段下の日本武道館の屋根の上に載せられている巨大な「黄金のたまねぎ」が有名である。おそらく日本で最大級の宝珠のひとつと言えるかもしれない。それが「武道」を行なう儀礼の場所に「偽装的に」顕われていることにも注目すべきである。またイスラム圏ではそのようなドームを持ったモスクはいくらでもある。それらの多くが「金色」に着彩されており「金」との関連が暗示されている*のである。

日本国内に目を戻せば、日本庭園や寺社で見出される石灯籠の頂点に置かれているものである。これにはまた別の説明があり、石灯籠の構造は下から、地・水・火・風・空の順序で垂直に並べられているのである。その理解からすればこの石灯籠上の擬宝珠は、「空」に当たる訳である。

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増上寺の石灯籠

* あるドキュメンタリー映像の中で、パキスタンの核兵器製造に関わったある物理学博士が大学の生徒の前で最終的な目的、すなわち「核エネルギーの抽出/核爆発」の実現のプロセスを板書したとき、そのチョークによって描かれたキノコ雲の形状がまさに「宝珠型」であったことは無意識であったにせよ、ひとつの祖型の共有を表しているとしか考えられなかった。その映像でその教室の窓から近隣のモスクのタマネギ屋根が黄金色に光っているのが映し出されたのを私は見逃さなかった。

結論から言えば、ここでその「形状」がわれわれに示唆するものは「memento mori」(死を想い出せ)というメッセージに他ならない。すなわち「始まり」があって「終わり」がある「それ」が、永遠でないことを想起せよというメッセージなのであり、多くの人によって眺めることができる高所(屋根の上など)に堂々と掲げられているのである。モスクや武道館といった施設の「頭上」に、そして「世界の頂点」に据え置かれるのである。

それは個人の死 (small death) に関わりがないと言えば誤りであるが、第一義的には集合的なより大きな人類の経験したことのある「死」への記憶を呼び起こすものである。そしてそれは同時に「円環」である以上、未来を指し示すものである。それが日常的な個人の死ではなく、集合的な死であるところにその<出来事>が後に宗教的なものに集約されていく理由がある。そして宗教は(とりわけアジアの宗教において)その「死」の回避の知恵を教示するものとして発展した。だがその死の記憶の共有なしに伝授されるべき秘儀もあり得ないのである。

さて、茶の湯に話を戻そう。

灰の中に注意深く整えられ制御された炭と炎、そして火によって鍛えられた鉄瓶(鍛冶術の成果のひとつ)の中で煮立てられ儀礼的に聖化された「水」は、最期に「緑」の葉の煮汁を抽出する。そして、この戦慄すべき「暦」の施された道具の中に注意深く注がれた緑色のどろどろの液(お濃い茶)を会衆の皆で最期に廻し飲みをするという儀式に大いなる触発を受けたのだった。これはほとんど「毒を呷る」行為に等しい。

茶の道がこれほどまでに敬意を以て保存されて来たのは、まさにこの永遠回帰の秘儀とその共有に関わる重要性のせいに他ならないという確信が生じた。これはまさに秘密の共有(共犯関係への参入)の儀式なのである。げに、茶の湯とは恐ろしいまでに無駄なく形式化された動作や道具を通して保持されたホストとゲストとのあいだの完璧なる入社儀礼であり秘儀伝授なのであった。そこにはあるいはまた、フリーメイソンの儀礼さえ凌駕するような象徴体系を保持した一種の「結社」と考えるべき理由がある。

そして私にとっては、その悠久の昔から続いている会衆への通過儀礼(イニシエーション)が、まさに部外者へのイニシエーションとして機能した瞬間だったのである。

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