「金剛」への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<宝珠>の伝えるもの[2]

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今回は「新年」「宝珠」そして「三つの火の玉」に関わりのある話。特に「三位一体」性を具象化していると考えられる図像や象徴的名称などのいくつかについて言及する。

日本の社寺仏閣系の「聖なる地所」を訪れるとわれわれがしばしば通過しなければならない最初の場所として「門」がある。特に山門の左右、もしくは門をくぐってからしばらくして左右に「対称」に配置された二つの像に気付くであろう。多くの場合は、日本では狛犬(こまいぬ)などで親しまれている二頭の獣(けもの)の石像である。これは実に多くの場所で見ることができる。もちろんこれは正確に言うと配置を除いては「対称」ではなく、一方は「あ/ア」の音を発声する口をしており、他方は「うん/ウム」の音を発声する口の形をしている。つまり、「あ・うん」の二つに挟まれた場所をわれわれは静々と進んで行くということになる。その獣が実は「獅子」であるということは単独で特記することも可能だが、ここではテーマの関係上あまり深入りしない。

そもそも、この獣像にさえいろいろなヴァリアントがあって狛犬(= 獅子)だけでなく、有名処では「金剛力士像」のケースも散見され、また稲荷神社であれば左右の狐(キツネ)像*であったりもするのである。しかし、そのどれも左右の像が伝えようとしている記号は「あ・うん」なのである。

* 狐像もその尻尾の形状をデフォルメさせることで「宝珠」の様に見立ているケースがある。つまり左右の「宝珠」である。

「ヨハネの黙示録」には次のように書かれている。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきてそれぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパ(アルファ)であり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。」これは正にわれわれ人類の「時間への陥穽:歴史の開始」に関しての象徴的で警告的な表現である。キリストがそのように述べたという記述は実のところ、4つの福音書中一言もないが、この新約の最後に収められている「黙示録」には、キリスト教美術や教示画の伝統の中でキリスト像とともにその左右にアルファ(α)とオメガ(Ω)が配される根拠となっていると思われる記述が見出される。だが、「私は去る(不在だ)が、また再び戻って来る」と使徒たちに向かって約束したイエス(キリスト)と、その「アルファベットの象徴」とが、ひとセットになっている以上、実に必然的なことと言わざるを得ない。

これを読まれる方々にとっては、改めてことわるまでもなく「アルファ:α」と「オメガ:Ω」はギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字である。英語で言えばさしずめ「AでありZである」ということである。これには差し当たって二重の意味がある。時間(歴史)が自覚され、それが始まった以上、いずれ「それ」には終わりが来なければならないという、歴史の摂理に関しての比喩の機能が第一である。また英語の「(from) A to Z」という表現が見られるように、これには「あらゆるすべて: all and everything」という含意がある。最初から最後までの「すべて」を含んでいるという意味である。まさに人為の数々とそれらに対する報いという地上(現世)に起こる「すべて」のことを総合して呼んでいる訳である*。

* 「イエスのなしたことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書をおさめきれないであろう。」(ヨハネによる福音書21:25)という記述を想起されたい。

さて、一方「あ・うん」はどういう意味なのかと調べてみると、漢字では「阿吽」のように記され、簡単に言えばそれは「最初の音」と「最後の音」であるという定義がされている。「母音(摩多)12字と子音(体文)35字で構成される」という梵字(サンスクリット)の字母であり悉曇(しったん)すなわち「成就*/吉祥の意」なのである。そして「阿吽」は「「阿」は悉曇(しつたん)字母の最初の音で開口音、「吽」は最後の音で閉口音」とあり、言ってみればアルファベットの「AとZ」に相当するのであった。これは、ヒンヅー教のマントラ「A-UM」とも同様のものである。つまりインド・ヨーロッパ諸民族の共有財産として、アルファベット(文字)がギリシア語においてもサンスクリットにおいても最初と最後は「アルファ:ア」と「オメガ:ウム」と、共通なのである。

となれば、われわれが社寺境内で通過する「狛犬」「力士像」とは、まさにその獣/力士の口の形状によって「アルファ」と「オメガ」をわれわれに伝達することに目的があり、その「始め」と「終わり」の間を歩いて行くという儀礼を、知らず知らずに境内を訪れる人々が踏んでいる訳である。

日本の年末年始との関わりで話さなければならないこととして、家の門に備えるある種の季節的飾りとして玄関に現れる「門松:かどまつ」がある。これにもある程度のバリエーションが存在するものの、その基本的形状は簡単に記述可能なものである。「三本の青竹を縄で縛って束ねたもの」である。しかもその「青竹は斜めに鋭く断ち切られたもの」で、その鋭角のその形状は「竹槍」状であり大いに武器を暗示するものになっている。これが「正月の玄関の左右に置かれる」もので、左右対称ではあるが、それに期待される象徴的機能は社寺境内に見られる「狛犬」と同様である。すなわち「アルファ」と「オメガ」と同様に左右に配置するという行為なのである。つまりわれわれの家は「アルファ」と「オメガ」の狭間に建てられていて、われわれはそこに「住んでいる」ということを伝達するのである。むろん、広く信じられているように「神が宿る場所」を示すものであるという伝統的説明を否定するものではない。

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■ 典型的「門松」の在り方(イラストは最もシンプルに元型を反映しやすい)

しかしどうしてこの一つの長さを持った時間の「最初」と「最後」に「槍状の青竹を三つに束ねたもの」が出現するのかということを考察しなければならない。フランス王家(ブルボン家)の家紋であり、天使ガブリエルとの強い関連のある「フルール・ドゥ・リ: Fleurs de lys」の百合(もしくはアヤメ/カキツバタなど3弁の花)の紋章、聖パトリックが顕示したと言われる三つ葉のクローバーの形をしているハーブ、シャムロック: Shamrockの葉クラブ (club, clover)、ギリシア神話中のポセイドンの持つ三叉の槍(トライデント: Trident)、毛利家の家紋(三本の矢)などと同様に、「三つに束ねられたもの」が三位一体を表すことは言を待たない。いずれの場合も「武具」との明瞭な関連があることには最大の注目を払うべきである。それらはすべて危機的状況とそれに対抗するための防御具として理解されることがある。

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この章の冒頭に掲げたように、フルール・ドゥ・リは「槍の先端」に現れるパターンであり、また頻繁に防御壁(柵)や盾(シールド)に現れる形状である。トランプで知られる「三つ葉」の象徴は棍棒「クラブ」のことであり、振り下ろして敵の頭を砕く伝統的な武具である(また農耕民の象徴でもある)。また三叉の槍は現在「銛」の形で現存するものであるが、ポセイドンの例を挙げるまでもなく武具の一種と考えることができる。毛利家の家紋(いちもじにみつほし)については後述する。

20051013-moori.jpg ■ 毛利家の家紋「いちもじにみつほし」

一方、聖なる概念としての「三位一体」とは何か、という問いにもわれわれは答えられなければならない。これには「聖三位一体」というものが、何らかの「奇跡的な力」「尋常ならざる破壊力」との結びつきを持つものであるといういくつかの無視できない実例もある。

広島と長崎に原爆が投下される前に、合州国内で一つの原爆実験が行われていることは広く知られている。ニューメキシコ州アラモゴルドの砂漠で炸裂したこの「史上初」の原爆にはコードネームが付けられていた。マンハッタン計画の最後の局面に於いて最初の試験的原爆につけられた名前は「トリニティ: Trinity」であった。そして現在でもその原爆の点火された場所には「Trinity Site」と銘打った石碑が据え置かれている。つまり「この地は、三位一体の遺跡(現場)なり」と。

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■ 「錬金」は成った。「Ω(オメガ)の暁」アラモゴルドの砂漠で膨れ上がる火の玉 (fireball)の写真。


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つまり錬金術の最終的な目標であった人為による「三位一体」の実現(金の生成)というものが、原子物理学の目標(核エネルギーの抽出:原子核変換)との間になんらかの寓意的な一致、もしくは(ある方面にとっては)明瞭な一致があるということである。西洋の錬金術用語(東洋の密教用語)と核開発関連用語との間の疑いようのない関係についてはいくつかの実例を挙げることも可能である。

システムの複雑さと安全確保に乗り越え難い困難があるために各国で頓挫、もしくは撤退している核施設に高速増殖炉というものがある。これは通常炉の燃料であるウランの燃えカス(灰)にあたるプルトニウムを「再利用」してさらに大きなエネルギーを得ることができるという「夢の発電施設」であるらしいが、各国における挫折や国内での反対にも関わらず、日本では依然として開発が続けられている。その高速増殖炉には「ふげん」と「もんじゅ」が、フランスに於ける同様の実験炉は「フェニックス」「スーパーフェニックス」という名前が付けられていた。つまり日本に於ける中型の実験炉には普賢菩薩の名が冠されており、より大型の商用の増殖炉には「智慧の化身」たる文殊菩薩: Manjushri の名が冠されている。文殊と言えば日本では「三人よれば文殊の知恵」という言?が知られていることに注意を喚起すべきであろう。「史上初」の原子爆弾のコードネームが「三位一体: Trinity」であったように、ここにも「三位一体」の暗示があるのである。そして最初に人の上に落とされた原子爆弾の一つは広島*に落とされており、この地は「三本の矢」の故事を遺したとされる毛利家と深いつながりがある。

一方、フェニックス(不死鳥)には「灰」から甦る「蒼い鷲」のイメージとして錬金術図版にも現れるものである。

* 広島を地元とするサッカーチームに「サンフレッチェ」と命名されたのには「聖フレッチェ(聖なる矢)」というラテン(イタリア)語を思わせる音を採ったと同時に「3フレッチェ」つまり「三本の矢」にちなんでいるという話は有名な話である。しかもチームカラーは「赤」と「青」の混合、すなわち「火と水の聖婚」の結果によって得られる「最後の色」、あるいはキリスト教会のレントの時期(キリスト磔刑後、聖金曜日の時期)に使われる聖なる色「紫」を採用していることにも注目すべきである。広島には「三位一体」の故事とともに核を暗示する象徴がすでに見られるのである。

そしてひとつの<出来事>がふたつの意味を持つ、すなわち「始まり」であり「終わり」であるということは、前回「暦茶碗」で見てきたように、同一のことの二面性を表している。それは「二つの時間的な周期の合間」に来るものということができる。さらに、丸く円周状になっている暦茶碗を宝珠の部分に切り込みを入れて、あたかも紙でできているものであるかのように平面へと「展開」すれば、当然のことながらその宝珠の部分に当たる「始まり」であり「終わり」である部分は左右対称に配置されるのである。厳密に時間が「回帰」するものではなく、直線的かつ不可逆的に進行するものであると考えれば、この「宝珠」は橋の欄干に見られる擬宝珠のように、ほぼ等間隔で配列されるであろうことは想像に難くない。

「宝珠」「狛犬」「門松」の様々な表象で象徴されるものとは同一のものであるということができる。

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