嫌悪を自覚すること

1/11/2006の日記で内田樹氏曰く、

<< 私は人間が利己的な欲望に駆動されることを決して悪いことだとは思わない。

しかし、自分が利己的な欲望に駆動されて行動していることに気づかないことは非常に有害なことだと思う。>>

なるほど。

曰く、

<< 中国が嫌いな人が中国の国家的破綻を願うのは自然なことである。たいせつなのは、そのときに自分が中国を論じるのは「アジアの国際状勢について適切な見通しを持ちたいから」ではなく、「中国が嫌いだから」(そして「どうして自分が中国を嫌いなのか、その理由を自分は言うことができない」)という自身の原点にある「欲望」と「無知」のことは心にとどめていた方がいいと思う。>>

非常に示唆深い一節だと思う。それでひとつのことを思い出したのだ。そしていつも通り、内田氏の一節のパロディを作った。

(パロディ)

<< ボクのことが嫌いな人がボクの創作活動や経済基盤の破綻を願うのは自然なことである。たいせつなのは、そのときに彼/彼女がボクのことを論じるのは「ボクやボクの周囲における将来の状況について適切な通しを持ちたいから」ではなく、「enteeが嫌いだから」という自身の原点にある「欲望」と「無知」のことは心に留めていた方が良い、そして「どうして自分がenteeを嫌いなのか、その理由を言うことができない」事実を心に留めていた方が良いと思う。>>

これについては、「その理由を言うことができない」と思っているならまだましで、嫌っている(嫌悪や憎悪を抱いている)ことを自分の意識から閉め出して自分に嘘をついている場合、どうしてenteeが嫌いなのかというところまで到達することさえできない。これは実際不幸なことだ。そして、他人(ひと)を嫌ってしまうような自分が嫌いだとかいう、いかにも立派な良心や自尊心が自分の心を殺すのであり、そのためにさまざまな気付くべきことから自分を閉め出してしまう。そして自分にだけでなく、その嫌っている相手にさえも間違ったサインを送っても気がつかない。それが相互理解にとっての最大の壁だと言っても良いかもしれない。

だから嫌いなら「嫌いだ」と言ってもらった方が、様々な問題はむしろ氷解するのだよ。そこから話が始まるのだし。でもほとんどの場合、「話」は始まってもいないし、「始めてしまう」ことに極度の怖れを抱いて隣人さんと上っ面の関わりをしているということなのだ。そういう人々にはそれに相応しい人生があるってことなだけだ。もちろんフィジカルに争って互いに滅ぼしあうのでない限り、よりよい関係が回復するのであれば、いくらかぶつかることが有益な場合はある。そしてそうした隠れた自己をあぶり出すために他者という鏡に自分を映して見るのだ。

まぁ、enteeが嫌いというのと中国が嫌いというのを同列に語って良いことだとも思わないのだが、「何かを嫌っている人」が、いかほどに自分自身を偽り得るのかというようなレベルでは同じことなのだ。かつて私の周りには「名古屋のもの(人)は全て嫌い」と言い切ったひとや「フランス映画は嫌い」とか言って済ませた人、あるいは「B型は直情的で周囲に無関心」というようなひとがいたっけな。どうしてひとつひとつ(ひとりひとり)を個別に見ないで、全部同じ風呂敷に包んで一刀両断できるのか私にはさっぱり分からないんだけど。

一見矛盾するようだが、嫌いなものを嫌いだと認められることは立派だ。だが、個別であるべきものをひとつの袋に入れてそれを嫌いだと言うのは、「中国が嫌い」で済ませられる単純化や偏見と大同小異だ。

スネークマンショー(古い!)じゃないけど、「良いものは良い、悪いものは悪い」。それに尽きる。全ては別個で、ジャンルや国とは関係がない。

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