「異端派」思想の「あれ」を「これ」から区別せよ
聖書関連ニュースとその余波

「ユダ福音書」の翻訳完成、また近々封切られる映画『ダ・ヴィンチ・コード』について、カンタベリー大司教から批判的コメントがあったらしい。

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そもそも、「ユダ福音書」の翻訳完成と、『ダ・ヴィンチ・コード』(原作や映画、そしてその周辺を含む)を同列に批判することなどできないだろう。どちらも現・教会正統派からすれば「迷惑な話」であることは分かる。だが、この批判の対象となった二つが等しく「陰謀である」という言い方は、あまりに大雑把だ。われわれは断じてミソとクソとを区別しなければならない(おっと失礼!)。

主張の論理性を鑑みれば、「ユダ」については「まだどのように解釈すべきかどうか議論の余地がある」と落ち着き払って述べ、『ダ・ヴィンチ』の方は、「陰謀史観を元にした単なる小説ではないか」と言うならまだ分かる。だが、両方とも同じレベルで批判するというやり方は、「敵である」という理由で二つの異なったものを同じラベルを貼った袋に纏めてしまうような「非科学的な」やり方である。そしてその「まとめ方」はヨーロッパ中世の異端告発の方法を想起させるといったら穿ち過ぎだろうか。彼らの存立の方針にあわない敵対すると想像される宗派をすべて「異端」であるとか「カタリ派」としてまとめたやり方だ。もっとも今回はわれわれが告発する側で教会がディフェンス側なのだが。

いずれにしても、よく考えてみれば、批判の対象となったこの二つが必ずしも折り合いがよい訳でもなければ、協力し合って現・正統派を攻められるほど相互補完し合うセオリーになっている訳でもなかろう(それについては後述するつもりだ)。「ユダ福音書」派とと『ダ・ヴィンチ』派が、下手をすると相互に「つぶし合う」可能性だって高い。そういう方向に教会側が持っていければ、本当な賢明な策謀家・戦略家になれるのに…

だが、教会側に論争上の「戦略物資」を供給するのが拙論の目的ではない。まず、その「陰謀」と決めつける英国国教会“総本山”カンタベリーの大司教の態度で了解できることがいくつかあることを確認しよう。それは彼らの権威が「揺るがせになる」ということに対して「相当に焦りを隠せないでいる」ということである。もし彼ら自身の信仰が権威保持とは別物であるのなら、何があっても信仰者として動じない態度でいいはずなのだが、映画という強力なメディアによって描かれる「教会の陰謀」というストーリーは看過できないと感じたことになる。それが荒唐無稽でまったくおハナシにもならん「説」なのであれば、まったく意に介さないという態度で一蹴することだってできたはずだ。しかし彼らの見せる「焦燥」は却ってこうした「仮説」が無視できない可能性を持っていることを彼ら自身が却って示唆していることにはなりはしないだろうか?

一方、今後どんどん解読されていく「ナグ・ハマディ写本」群や、次第にあがってくるグノーシス諸派について学術的研究の成果のことを思えば、グノーシス派の「ユダ福音書」の翻訳が完成したくらいで慌てふためいているようではまったくダメなのである。ローマ・カトリック(あるいはイギリス国教会)が神によって選ばれたのではなく、彼らが異端と決めつけ徹底して排除した初期キリスト教の諸勢力との「実力闘争」によって現在の教会組織の基礎ができたということは、すでに解かれつつある「歴史的事実」である。そのようなことを以て、教会の存在意義が問われてしまって(問われてしまうと彼らが考えて)いいとは(教会に対して普段から批判的な)われわれにも思えない。

『ダ・ヴィンチ』については横に置いておくとして、今回の大司教のコメントから了解できることは以下のことである。すなわち、(現主流/正統派にとって)「グノーシス派とは、未だに異端である」ということである。当たり前のことのように見えるかもしれないが、これは真摯な研究を重ねている考古学者や聖書学者からすれば、「真実の一番近くにいる人たちが、その目を閉じていて、その存在に気付こうとしない」如くに聞こえる話ではないか。これはイエスがいみじくも言ったように、「預言者は、自分の郷里で歓迎されないものである*」という事情に近い。「聖書に関する真実は、聖書を正典とする教会で歓迎されないもの」ということになる。

* マタイ 13:57、マルコ 6:4、ルカ 4:24、ヨハネ 4:44に同様の記述がある。例えば、マルコ 6:4には「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこでも敬われないことはない: Jesus said unto them, A prophet is not without honour, but in his own country, and among his own kin, and in his own house. 」とある。持って回った言い方だが、如何に立派な予言者でさえ、「別の場所ならいざ知らず、自分の郷里や親族の間では敬意を持って扱われない」ということである。しかも「そこでは力あるわざを一つもすることができず…」とある。その事情もよく想像できることではある。

個人の内観的思惟によって到達可能なある「知: Gnosis」の存在。現今の教会が認めようが認めまいが、「知」というものの別様態は、すでに2000年以上前にさかのぼれる伝達され得た真理のひとつとして、どんな時間を経過しようとその価値は不変である。しかるに、教会は時々に報告されてくる「個人における神秘体験」を、その時々の都合に応じて受容してきたばかりか場合によっては「聖人」として祭り揚げて来た一方で、時代のそこここで出現した幻視者的な人々の語る言葉の救済的価値の潜在性の方は拒否し続けられるというのだろうか? それは教会が永年に渡って求めてきた「無知の継続」方針と相も変わらない。そもそもキリスト教とは、われわれ人類を危険の縁にまで導く可能性のある、或る種の「知」に対するアンチテーゼであって、それは「別の知」を以て克服するという弁証法を通じてではなく、「選択された無知」によって保守を計ろうとしたある種の「強制」であり「矯正」の運動であった(それ自体の価値というものは別途評価が可能だ)。つまり「権威」と「実力行使」を通して計られた「反知」の運動であったに他ならず、そもそも人間の「知への志向」に対する「反動」というのが本質的にキリスト教会の担った機能なのである。その方針は良くも悪くも功を奏し、やがて文芸復興(ルネサンス)が来るまでの欧州特有の時代(一般的に「中世」と呼ばれる一時代)を形成した。したがって、(権威を保守する側の)「正統派」と「(神秘主義者としての)幻視者個人」との間の「緊張関係」については、G・ショーレムもその著書において詳しく述べているが、この現代社会においてさえ、そうした旧弊なる緊張を教会の側は延長しようとしているように見える。それが果たして最も賢明な選択と言えるのであろうか。

現在の「正統」としての教会は、いかなる教会であろうと(ということはローマ・カトリックであろうと、英国国教会であろうと、プロテスタント教会であろうと)、「教会を救済の唯一の手だてである」と主張する限りにおいて、虚偽を免れることができない。一方、歴史的存在としての教会の価値とは、彼らの主張する「正当性」にあるのではなくて、「反知」を実現化させるための注意深い「知の保存」という点においては揺るぐことがなく、そのために現代においてその再現能力を持つ。いわば「知の番兵」としての教会の司教たちが何を守ってきたのか、その実体を今こそ再認識すべきではないのか? それが可能な時、彼らこそが「知の真の伝達」という秘教に属すべき「真知」の顕示を成すべきものとして、再出発が可能なのである。

ということは、今こそ本当の意味で教会が真の知恵を人類にもたらし、「知の再生」を果たせるかどうかの瀬戸際にいることになる。これはおそらく最後のチャンスであろう。彼らが築いてきた「権威」を守護することが彼らの生存の目的なのか。そうではなく、彼らのアクセスできた幾つかの秘教的知恵、相続してきた象徴的表現物や作法、そうしたものが今からでもある一定の個人によって「読み解かれる」ことを待って、それを果たした時に自滅を実現できると考えられる。しかるに、現代のグノーシス派を「敵」と認知して排除することは真に賢明であると言えようか? 彼ら正統性を主張する様々な教会(旧教、正教、新教、ユダヤ教)の間にはエキュメニカル運動といって宗派を超えたユダヤ=キリスト教の大連合を成し遂げようという努力さえもあるのであるが、「教会」という形を持たない「知」「思想」「内観的(直感的)悟り」といったものと連合することはできないというのだろうか?

以上が、グノーシス思想に当てられた新たな光と教会との共存の問題である。

一方、『ダ・ヴィンチ・コード』について。ダン・ブラウンの「フィクション」にしても、ブラウンを訴えたネタ本の著者マイケル・ベイジェントとリチャード・リーらによる『イエスの血脈と聖杯伝説』にしても、これらがわれわれにもたらす“世界観”とは、「人間の組織」としてのキリスト教会の成立時期に関する「史実」をくつがえすものではなく、主としてその役割は、聖書のもたらす物語そのものの「史実性」に関しての異説であるに過ぎない。以下についてはすでに何度か言及しているが、われわれは聖書に書かれている事自体の「史実性」に最大の関心がある訳ではない。歴史的事実としての「イエスの実在」や彼自身に実際に起きたこと(それはじじつ磔刑であるかもしれないし、狡猾にも磔刑を逃れたことであるかもしれないし、人間としてのイエスは、結婚さえもしていたかもしれないし、それどころか子孫を残したかもしれない、などなど)、せいぜいそうしたことが、『ダ・ヴィンチ・コード』や、その周辺図書群がわれわれに「驚くべき事実として」提供できることであろうし、それ以上でも以下でもない。だがそのような「史実かもしれない」ようなことに、《聖書が指し示す象徴的内容》以上の重要性があるとの主張の価値をわれわれは認めないのである。その意味で、現状のような教会の宗教にとっての正典たる聖書が、人間の手による厳密な取捨選択を経たものであるにせよ、そのために「聖書の現状のままで保持し得る象徴的価値」というものは一向に差し引かれないのである。

われわれの立ち場は、教会についての真の問題が信仰そのものにあるという立場を取らない。むしろわれわれの認める重要性とは、「信仰された」ためにおよそ2000年の後にまで伝えられることとなった物語の、意味の多重性であり、それらの言葉が字義通りに伝達する以上の《象徴的意味合いの指し示すこと》が、現代を生きるわれわれの生存と関わりのあるという点において、さまざまな諸神話や秘儀伝授的伝統の果たした役割と本質的に変わるところがないばかりか、キリスト教の新約福音書の伝えるものが、現在進行中の世界史上の出来事をあたかも予定するかのように記述されているものとして読めること、結果として「生きる神話」なのだという事実を優先的に重要視するものである(そしてわれわれが皆、後に神話となるきわめて意味深い時代を生きているという自覚と知識を重要視するのである)。その点で、われわれは教会に通い、その権威に服従する熱心な信仰者達にとってとは違う意味で、キリスト教とその原典の価値を認めている者たちである、と言うことはできるかもしれない。グノーシス思想の研究とは、その行為自体がグノーシスへの接近を意味している。

結論を繰り返すと、この度のカンタベリー大司教のコメントは、権威として存在する教会にとってきわめて重大な過渡期におけるひとつの態度表明であり、「陰謀」と決めつけられることによっては解決し得ない二つの「知」の間の緊張状態の再演につながりかねない誤りを含むものである。そして今回の非難の対象となったふたつの出来事自体が、全く別の次元において論じられるべき意味を持ったものであるということに気付かぬほど、彼らは不勉強であり得、無駄に焦燥に駆られている可能性があるということを意味する。

彼らが世俗において持続的繁栄を望み、その上で、皆様からより一層の尊敬を勝ち取り得るその戦略とは以下の方法だろう。

「こうしたニュースがきっかけになって、みなさんの教会とその深淵なる歴史に対する関心が再び高まり、そればかりか、研究資料として教会により多くの方々が足を運ぶようになって頂ければ言うことはございません。今度の日曜日はぜひ足をお運び下さい、我等がキリスト教会へ」。だろ! もっと有能なスポークスマンを雇い給え、祓い給え、清め給え!

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◆ 資料 ◆

「ダ・ヴィンチ・コード」「ユダの福音書」は陰謀=カンタベリー大主教が批判 (AFP=時事)


【ロンドン16日】英国国教会の最高位者であるウィリアムズ・カンタベリー大主教≪写真≫が16日にカンタベリー大聖堂で行う復活祭のミサで、世界的なベストセラー小説「ダ・ヴィンチ・コード」や、「ユダの福音書」の写本が発見されたと伝えられることについて、陰謀だと非難することが明らかになった。

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 大主教はミサで、宗教がメディアにどのように扱われているかをテーマに説教を行う。AFP通信が入手した抜粋によると、大主教は「新聞やテレビは信仰の歴史的基盤をめぐる議論のタネを嗅ぎ回っている」と指摘。「ゆえに、キリストの受難と復活に関して異説を唱え、伝統的な信仰の基礎を揺るがすことになる『ユダの福音書』の発見が数週間前にメディアで大々的に取り上げられたのは、大きな驚きではない」と語る。

 3、4世紀にコプト語(古代エジプト語)で書かれた「ユダの福音書」の写本には、裏切り者の代名詞となっているイエス・キリストの弟子ユダは、イエスの言いつけに従い、イエスを処刑のために官憲に引き渡したと書かれている。写本は1970年代にエジプトで発見された。

 また、「ダ・ヴィンチ・コード」について、大主教は「我々は単調な事実よりも、このような話を信じてしまいがちだ」と述べるという。「ダ・ヴィンチ・コード」には、イエスには子供がおり、後裔が今も生き残っているとの説が紹介されている。

[ 2006年4月16日23時1分 ]

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