宗教の「第三の機能」への一瞥
ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [1]

The Gnostic Gospels

原題をThe Gnostic Gospels(グノーシス派福音書)という、非常に得るところの多い、真摯なキリスト教とグノーシス思想に関する研究書。特にキリスト教成立期における政治と宗教の関わりについての書である。エレーヌ・ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本 〜 初期キリスト教の正統と異端』荒井献・湯本和子 訳(白水社)から引用して、そこに見出される幾つかの課題について論じていこう。

彼(パウロ)の議論はしばしば身体の復活を擁護する論拠として読まれているが、この議論は、「兄弟たちよ。私はこのことを言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるもの(すなわち死すべき肉体)は、朽ちないものを継ぐことがない」という文言で結ばれている。

新約聖書の記述がさまざまな解釈を許容し得たとするならば、なにゆえに二世紀の正統的キリスト教徒は、復活を文字通りに解釈すべきだと主張し、他のすべての解釈を異端として退けたのであろうか。この教義を宗教的内容の観点から見る限り、われわれはこの疑問に的確に答えることはできないと思う。しかし、これが実際にキリスト教運動にどのような影響を与えたかを検証してみると、われわれは逆説的に、身体の復活の教義が重要な政治的機能も担っていたことが分かるのである。すなわちこの教義は、使徒ペテロの後継者として諸教会の指導権を自分たちだけで行使することを主張した若干の人々の権威を合法化することになったのである。(page 43)

「復活」の解釈に関して、この箇所から伺えるペイゲルスの記述は相当に的確であって、彼女のもっぱら対象とした問題圏においてはすぐさま付け加えることがあるとは思えない。とりわけ、「(復活の教義を)宗教的内容の観点から見る限り」と条件付けし、その意味は「重要な政治的機能も担っていた」という風に当時の政治状況を鑑みれば納得できることである、と述べているのであるから、それは事実であるとほぼ認定可能である。彼女の捉えたそれぞれの問題圏における彼女の記述になんら不足なことがあるとは思えない印象がある。例えば、一方においては「疑問に答えることはできない」と言い、他方(政治的観点)においてはきちんとした説明をなしている。

だが、ここで彼女が「的確に答えられない」とことわっているような「宗教的内容の観点」ということには、一瞬立ち止まって検討する余地がある。なぜならその「観点」には、宗教に対しての狭義の条件だけが前提とされているようにも感じられるからである。「宗教的内容」というのが、いわゆる個人の幻視者に生じるかもしれない内的(神秘)体験そのものであると厳格に定義付けて考えれば、その条件付けは間違っていないのであるが、「人間の組織としての宗教」というものの担ってきた機能というのは、単に「身体的神秘体験」を通して了解される純粋かつ正統なる「宗教的側面」(聖なる側面)と、「政治的機能」(俗なる機能)という二者択一的な言い方だけで片付けられない面がある。

グノーシス的な思想の影響下に置かれる程、「人間の組織としての宗教」が、如何に錯誤や欺瞞に満ちたものなのかということに、われわれは心を奪われがちだし、いよいよわれわれの多くが伸長させつつある現代的異端派の視点の獲得によって、教会の築き上げて来た数々の行状や今日の在り方に仮借なき批判の言辞を浴びせることは容易になりつつあるが、それでもなお、正統派教会というものが、そうと知らずに担って来た機能というものの知られざる価値──それはほとんど逆説的価値というべきものだが──は、正統派/異端派のどちらにも容易に与しない第三の視点というものによってこそ初めて捉えられる宗教の側面なのである。

そして宗教には、ひとつの人類の生き方の態度決定に影響を与える「道徳規定の機能」がある。言うまでもなくそれは顕教的な「善き人生や関係のための教え」や不合理な恐怖心に訴えかけるようなものを指しているわけでもない。人間の地上的生存を尊重した時に、そこを生きる人類の態度に多大な衝撃を与えるのが、宗教の「象徴的機能」である。つまり、《純粋に宗教的内容》を持った真に正当な宗教的(霊的)観点と政治的観点の他に、それらが総体として作り上げる「象徴的観点」という、いわば「メタフィジカル」とでも表すべき視点が存在するのである。これはそのもの自体では一見、何の役にも立たない、ある種、非合理な機能である。だが、いわゆる通常の正統派から見た「復活の教義」の重要さというのが、単に、宗教組織にとっての指導権や権威を自分たちだけに合法的に独占するため、というような政治的な意図だけであったと考えると主張すれば、宗教についての言説としては、まだまだ言い足りないのである。

「復活」の教義というのは、キリストが何を象徴的に表しているのか、ということに対する的確な理解なしには読み解くことの出来ない部分であり、ペイゲルスの視点の中ではそうした「象徴的存在としてのキリスト」という概念へ深入りは、ほぼ範疇外である。「復活の教義」は、一見してキリスト教の宗教としての独自性の部分であると彼女も本書でことわっている(p. 39)のだが、われわれにとっては、それがキリスト教の独自性ではないことは、あちこちで確認して来た如く、すでに明らかである。「死と再生」「滅亡と復活」とは、キリスト教だけの独壇場ではなく、あらゆる秘教的イニシエーションや神話が繰り返し表現方法を変えつつも執拗に伝えてきたものだ。キリスト教の「復活の教義」とは、まさにそうした秘教的伝統を真っ当になぞった部分なのであって、キリスト教哲学の独自性を意味しない。

したがって、「復活」を杭(アンカー)として教義の中にしっかりと根付かせ、その「実在」を字義通りに人々に記憶してもらうこと、そしてそれを未来へと伝承することには、単なる政治的意図以上の意味があるのである。それを教義の中核(のひとつ)として据えたカトリック教会自身が、それを「字義通りに受け取る」という陥穽に落ち込んでいるのはわれわれの眼にもはや明らかだし、またそれを「字義通りに受け取る」ことを信者に疑わせることなく強制した結果、その本質たる象徴的解釈から大多数の者たちをも当然遠ざけられてしまったのである。だが、「外部(他者)を欺くのに内部(自己)をまず欺かざるを得なかった」と考えれば、それはそれで納得のできることではある。自らをしてその「復活の教義」に帰依させることを徹底することなしには、これだけの「人の子イエスの復活」などという条理を逸脱した教理を、これほどの長期にわたって人に信じさせることができたとは思えないのである。

あるグノーシス主義者は復活を文字通り受け取る見解を「愚者の信仰」であると呼んだ。復活は、彼らの主張しているところによると、過去においては特異な出来事ではなくて、今日、キリストの存在を経験できることを象徴するものである。大事なことは、文字通り目で見るということではなく、霊的に見ることである。(page 49)

「霊的に見る」と、私なら敢えて言わないだろう。「心の眼」で視るというくらいに留めておくだろう。だがそのようなことはさして重要ではない。ここで、われわれが思い出さねばならないこととは、「字義通りに信じる」という言葉に、二つの意味があるということである。それは「字義通りのことが起こったと、それが告げる通りに信じる」という場合と、「字義通りに受け取った上で、それが象徴するところの意味を理解し信じる」というふたつである。いずれも「信じる」ことへは繋がっていく。だがこの二つの「信仰」は似て非なるものである。象徴の指し示すところを諒解させることは、まさに宗教の第三の機能、すなわちいわゆる「啓示宗教」の本質とも「支配宗教」の持つ政治的機能の観点からも異なる宗教の持っている重大な役割なのだ。そして、それを象徴的に理解するためには字義通りに一旦受け取らなければ、その重大な意味伝達という目標には適わない。

したがって、まず疑問の余地なく字義通りにその内容を人類に記憶させ、後にその意味をあらためて想起させるという意味で、その「教義受容」の強制という側面には、政治的な権威の保守と独占ということ以上に重篤な意義がある訳である。それがそもそもの宗教の発端とさえ考えられるのである。また、その点を肯定することなしには、これまでの宗教の誤謬や犠牲の一切を単なる無駄な浪費であったことになるのである。こうした評価は、訴える側にとっても訴えられる側にとっても、何ら得るところはなく、実に不幸なことである。

そしてその宗教の隠れた意義(秘教)へと個人が到達(参入)するためには、まさにペイゲルスが取り上げているところのグノーシス主義者たちの主張、すなわち「自分自身を出発点とする」ことから始めるべ