「上野発、越後行き」の行方は?

先週の木曜と金曜の夜は、来週の週末予定している新潟の越後湯沢近くの一泊二日の「合宿」の前に、ちゃっかり「前泊」をするための調査でネット中を徘徊した。宿泊できそうな候補や電車の時刻表やらをプリントアウトし、ほぼ2日間朝方まで過ごした。新潟に関しては、まったく土地勘がなかったので、今回改めて地図を観たりして、どんな鉄道路線があり、どんな地名があって、またどんなところに泊まれそうなところがあるか、などなどをようやく覚え始めたところだった。だが、特に金曜の夜は調べるのに極端な疲労を感じて、「逆にこんな事をする意味があるのだろうか。いっそのこと止めてしまおうか」という自棄なアイデアに心を奪われ始めていたところだった。そんなとき、深夜を回った辺りで、突然長いこと忘れていた、ある「嫌な感覚」を覚えた。小学生や中学生の時にはよく感じたあの原因不明の胸騒ぎだ。

落ち着かなくなり、何をしても集中できない病的な不安感。そのとき、「地震が起こる」というほとんど確信に近い感覚を得たのだ。私は亜紀子に「地震が来ると思う」と言って何か準備をしようと提案した。

水をペットボトルに用意してもらい、寝室の枕元には普段おかないスリッパを用意した。大きな地震が来ればいろいろなものが床に落ちたり割れたものが散乱したりして足の踏み場がなくなるからだ。倒れて割れそうな額入りの絵を頭上から足許に移した。頑丈なダイニングテーブルを寝室の入り口近くまで持ってきて、いざというとき潜れるようにした。甘いものをまとめてビニール袋に入れた。余り意味はないと思ったが頭に被れる帽子も枕元に用意した。懐中電灯も。ベランダ側の鍵は開けておいた。それほどの大きな地震が来たら窓は全部割れるだろうからナンセンスだとは思ったが、すこしでも「閉じこめられる」事の恐怖から逃れるためである。これで何も起こらなければそれはそれで良いではないか。

そして、寝る前に揺れが来たときどこに逃げるかとか話し合った。

土曜日の朝は、それでも9時半過ぎに起床して地震が来なかったことに胸をなで下ろした。夜の暗闇で地震に遭うのは考えただけでも恐ろしかったからだ。土曜は町田の両親と甥に会う約束になっていたので、4時半頃ひとりで家を出た。バスの遅延で思いのほか時間が掛かったが、6時ちょっと過ぎに実家に到着した。家に近づくと、80メートルくらい離れたところから外の通りに出た母の姿を見かけた。こちらに気が付いたと思ったがそのまま家の中に入ったのを目で確認した。うちにはいるなり、「今大きな地震があった」と言った。「揺れを感じなかったか」と訊いた。「バスに乗っていたから全然気付かなかった」と応えた。父はテレビを付けて地震速報に釘付けになっている。暫くすると実家でもかなり大きな揺れを感じた。2度目だという。

震源は新潟。昨日の夜調べていた県内の地名が大写しになっている。新幹線が脱線しているという。時間を経るに従って続々と集まってくる情報を観ていると、どうも被害の様子がつかめていないことが分かる。

すぐに留守番をしてひとり自宅で仕事をしている亜紀子に電話をした。かなりに揺れだったという。土曜日の夜は、実家に泊まった。翌日(今日)の新聞を見ると被害の大きさに驚いた。亡くなった人がいる。行方不明の人がいる。交通が寸断されていて孤立した村がある。避難する人が増えている。電気が復旧していない。食糧が足りない。乗ろうと思っていた上越線にもかなりの被害が出ている。などなど。

大きな地震の震源は関東地方ではなかったが、来週予定している「合宿」先に近いところだったことが分かった。早ければ今日にでも上越線はあちこちで寸断されているという。予約しようとしていた上越新幹線も越後湯沢までの折り返し輸送になると言う。来週のことなど、あれほどまでして調べることに一体どんな意味があったのか。意味に転じさせることは自分次第か?

<地震予知>はもっともっと具体的で「正確」でないと、余り役に立たない。だから「備えあれば憂いなし」と言うのだろう。が、あれほどの大きな自然の猛威を前に、自分が自分のためにが備えられることは何か?「心の準備」くらいなのか。そんなことを、余震の続く新潟の映像を見ていて思った。

地震の夜、ひとりで留守番をさせた亜紀子に申し訳ないことをしたと思った。

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