父の記憶が薄れる前に

父が逝った。25日(火曜)早朝、6:28。病名はNK型悪性リンパ腫。享年73歳。直接の死因は、胸水が肺に溜ったことによる呼吸不全か? まだまだ活躍してもらえるものと思われた「窒素ラヂカル」の新しい時事世相批判を見聞きすることはもはやできない。


火曜日の朝、6:38に姉から電話を受け、父の死を知る。午前中、引き継ぎをするために1時間半程、バタバタと職場に出る。その足で実家に向かう。12時過ぎに実家に到着。父と対面。病院から直接連絡を受けた母も姉も死に立ち会うことはできなかった。突然の病状の急変と死。担当医も驚く程の急な出来事だった。

水曜日、11時から父の遺志により宗教色を排したお別れ会(密葬のみ)を行う。これもまた父の遺志ですでにリタイアして10年経っている以前勤めた会社関係には一切告げず、兄弟関係と身内だけの会とした。父の撮り溜めた写真の中から選りすぐった大判の写真を壁一面に張り、宗教色を排したものとした。なくなった翌日の午前中からの会であったにも関わらず、20名近くが集まった。

木曜日、火葬と集骨。

金曜日、仕事に一旦戻る。

土・日曜日、やっと一息つく週末。

自分自身も年を食って来たせいか、あるいは老年と呼ばれる人々の高年齢化が進んでいるためか、七十を超える父を老人だと思ったことはなかった。実際、彼が亡くなるほんの数日前までは、彼をそのように扱いはしなかったし、そのように考えることを自分は拒否し続けていた。そして何よりも病気らしい病気に罹ったことのない父自身が、そのように思われることに対する強い抵抗があった筈だ。彼にはリタイア後も継続的に追究するテーマがあったし、その成果を世に問うという大きな宿題もあったのだ。その父に最初の異変が起きたのは昨年の11月だった。

昨年の11月のある日、父は帯状疱疹(ヘルペス)に掛かり、その痛みに耐えかねて、外科で神経ブロックという応急処置を受けた。その対処療法が原因か、ヘルペス自体が原因かは分からぬが、右足首関節を自分で持ち上げられなくなるという後遺症がのこったのだった。後で分かったことだが、劇症ヘルペスとも呼ぶべき希にみる重傷であったそうである。この後遺症のために、それまで習慣にしていた毎日2時間の散歩が出来なくなった。糖尿の気がある父にとっては、この体調の変動と不自由は、大きな打撃となったに違いない。

[以下は、随時加筆する予定]

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