日本の戦争

日本の「軍事力」を以て戦争に荷担することは出来ないとか、日本人は格別戦争を望んでいないとか、なんだかんだ言ったって日本は米軍に守られているとか、あるいは、中国は依然として日本にとっての脅威であるとか、はたまた、北朝鮮との軍事対決は、自国の防衛を理由にしたもの以外にありえないとか、戦争を望む者にも望まぬ者にも共通してあるいくつかの「日本と戦争」に関する幻想が抜き難くあるように感じられる。これは実にもどかしい。

かなり日本の戦争責任や平和の実現に対して、比較的意識の高い人であっても、現在の日本が世界に対して何が「可能」なのか、あるいは世界から見た日本がどんなに脅威なのか、などに関しては存外無関心であったり、無関心でなくても、巧妙なメディアコントロールのために知識が絶対的に不足しているのではないかという疑いが拭えない。いや、私は自分たちの無関心をメディアのせいだけにする気はない。むしろ、メディアはわれわれが関心を持ち、見たい聞きたいと思っているものを提供するだけの「安心の装置」なのであるから、メディアの届ける内容を以て自分たちの無関心を正当化することもできない。

「米軍第1軍団司令部の座間受け容れ」についての人々の関心の度合いから言っても、われわれの近い将来の安全や再び戦争の加害者になるかどうかの大問題であるにも拘わらず、その事実を知らないという人が大勢いる。新聞の扱いも、まったく十分というにはほど遠い状態である。これについては、旧版entee memoでも言及した。心情的には言いたくないが、いわゆる左派と言われるような新聞ほど、こうした重要なことを伝えることを怠っているような印象さえ持つ。自分はたまたま「試供版」として新聞受けに無料で突っ込まれていた、かの産経新聞の特集記事でそのことを知った。毎日や朝日がそれについて取りあげたのは私の知る限りでは1週間から10日遅れだった。(いつまでも誰に向かって「主張」をしたいのか分からない差し障りのない社説を垂れ流してジャーナリズムの役割を果たしているかに見える「良心的」大手新聞よりも、敵の論理を進んで配信してくれる産経の方が、われわれにとって役に立つんじゃないかと真剣に思った。)

だから、十歩譲って「日本が戦争を望んでいない」として、それは望まないことだけで実現することでは、もやはない。日本が自決可能な独立国でなく、明白なる属国としての地位の中で軍事大国の世界戦略の中に組み込まれていたら、もはや日本の「望み」とは無関係に、ことは起こっていく。

そして、「組み込まれていたら」という仮定の話ではなく、「組み込まれている」という厳然たる事実が、あちこちからその様相を呈し始めている。このあたりの現実は次の記事に詳しい。(「米世界戦略に組み込まれる日本」@ 窒素ラヂカルの『正論・暴論』)

清沢洌(きよし)が、戦時中の日本人が戦争をやっているという自覚がなかった事を、その『暗黒日記』のなかで記している。たとえば敗戦の年の正月あたりの記述によれば、その頃ようやく日本が「戦争をしている」自覚を持ったのだという。勝っている戦争なら、自分たちが戦争をやっているという認識を持てない。負け始めてはじめて自分たちが戦争をやっていることを悟ったのである。

私は、今後の日本が、正当化できない戦争に荷担したり、積極的に参加したりしても、「連戦連勝」して無自覚でいるということを畏れる。かつての朝鮮戦争やベトナム戦争自体がそうだったとの指摘もあるだろう。もちろんそれを否定する気はない。しかし、それは過去のことではなくて、今後もアメリカ合州国という強力な覇権国家の陰にいて、「守られて」いる実感も「協力して」いる実感もなく、十分繰り返し起こりうることだし、おそらく「最もありそうなかたち」の日本の戦争参加なのである。

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