「解釈」や「自覚」を越えて

「ブラックサバス問題」だが、それは個々の作品と、作品の時間的/空間的「連なり」をどう捉えるのか、言い換えれば作品自体に個別に対峙するのか、作品群の中に個別の作品の特定の位置を発見して発展史という文脈の中でそれらを捉えるのか、という二者択一の問題に行き着く。

そこまで書いて、ふと一昨年の今頃書いた「自覚的であるということが、創作内容の芸術性の決め手となるか?」という文章を思い出した。

(時間のある方は後で読まれたい。)

まあ言ってみれば、大なり小なりマニア的な(あるいは熱心な)芸術の愛好家というのは、単に行き当たりばったりに個々の作品を鑑賞しているのではなくて、往々にして作品を「文脈:コンテクスト」として捉えられるほどのまとまった量で鑑賞するものであるし、そうした横断的な鑑賞法がもたらす感慨には、個々の作品から単独で得られる感動と同等か、もしくはそれ以上に興味深いことがある、ということを知っているということなのだ。そして評論家が評論家である理由というのは、こうした歴史的文脈で「作品を理解する」ことができる歴史鳥瞰的な眼を獲得したということに外ならない。だがもちろんこれは評論家だけの特権ではなく、あらゆる創作者が持っていても「損はない」ひとつの視点ではある。そこまでは便宜上、認めても良いだろう。


したがって、こうした文脈的理解という鑑賞法自体の価値は全面否定のしようがないし、否定したところでおそらく得るところはないだろう。だが、個々の作品の持っている存在論的かつ文脈的な必然性を了解するという分類学/博物学的な歓びだけでなく、個々の作品自体が放つ、それ自体にしかない特有の快感性や官能性、あるいは固有の意味、ないしメッセージ性, etc. に気付かないとすれば、そもそも作品を愛する原初の目的を忘れていることになり、本末転倒である。

したがって、「歴史文脈的理解」は、鑑賞行為に指針を与え、鑑賞者の精神に一定の「豊かさ」を添加するだろう。だがそれはそれだけのことであって、その添加物のみでは鑑賞者の態度としては、なんとも不十分なのだ。

ましてや、創作者によるそのような歴史文脈への理解や歴史軸に於ける立ち位置の自覚が、芸術家としての価値(あるいは鑑賞者の能力の程度)を決める、などという言説の登場に至っては、どうして個々の作品がそもそも表現されなければならなかったのかという最重要な動機部分を空洞化させることになるとしか言いようがないのである。

そこでわれわれは、いわゆる専門家(マニア、あるいは控えめに愛好家)たちの持つ鳥瞰的視点が獲得される以前の状態、すなわち作品を作品自体の価値を通して個々に判断するという原初の鑑賞態度につねに立ち戻る必要があるのだ。

近代に視られるような抽象表現などの新しい手法の芸術の登場以降、表現芸術は、単に「鑑賞される」という次元に留まることがあたかも罪悪であるかのような、今日よく知られたところの「目的意識」を創作家たちに要請し始めた。同時に、鑑賞者に対しても「単にそれを楽しむ」などという鑑賞姿勢では怠惰以外の何ものでもないというような空気が醸し出された。

そうした時代において芸術家は、時代精神を反映した「代表者」であることが条件となり、かつての芸術に対して批判的な鑑賞者でなければならない。今日の創作者はそういったあらゆる今日的批判に耐えなければならない。ある局面において、ある表現はそれが新奇であることを理由に称賛されるのかもしれないし、時代錯誤であることを理由に最大の否定的言辞の矢面に立つことになるかもしれない。そして「新しい時代」の表現の導き手としての「自覚」によって、あらゆる実験の担い手であることも正当化されるであろう。

これは言わば、進化論や商売における市場至上主義のような考えが芸術の領域にまで適用されなければならないと、時代のどこぞで決定されたかのようである。あるいはその「申し合わせ」はほとんど議論の余地のないほどの広がりで受け入れられた、芸術の価値についてのデファクト・スタンダードとなって久しいようでもある。

もちろん以上は極度に単純化した議論であろうことは認めよう。古典や伝統表現の再評価はどんな時代でも繰り返されてきたし、新しい表現者が古典の持つ伝統的な手法や技術をあたらしい創作の出発点としている例など、枚挙に暇がないほどであるから。したがって古典や伝統に対する正しい評価の上に「新しい」ことの意味を自覚している創作者がいることも否定はできない。

だが、今言ったような古典の価値に対する認識を一気に飛び越して現代の芸術の有り様のみを肯定するような態度が見出されることがあることについてはどのように考えるべきなのか。少なくとも、こうした考えに支持を与えるのは、物事はすべて進化の一途にあり、新しいものは古いものを常に超克して現在の有り様を獲得したのだと言わんばかりの現代の技術礼賛や近代の知性への過信に外ならないように思われることがあるのは、返す返すも残念なことである。

話が逸れた。ここで言いたかったことはもっと単純なことだ。つまり、芸術の進展についての歴史認識や歴史解釈が、創作者にある種の使命感や自覚をもたらす可能性を否定はしないものの、表現や創作行為の中身というのは、そのようなものばかりではないということだ。評論家などによって容易に言語化可能な文脈的解釈のなかに位置づけられる「動機」のなかに作品の本質はない。(いやその程度の本質で済んでしまう「芸術」もあるかもしれない。)時に、作品の本質は本人自身の自覚のレベルを超えて??あたかも創作者本人によっても認識されないような無意識の天才が内部に潜んでいるかのように??立ち顕われ、同時代人や後世の人々を感動させることがあり得るのだ。ここでは「自覚」なるものが何の意味も成さない。あるのは、創作者の自覚があったに違いないという後世の人間の憶測に過ぎない。

いずれにせよ、作品の出現を時代の文脈的に捉えて説明しようという誘惑に鑑賞者は負けがちであるし、そのような次元の解釈で範疇分けされてしまうことはつねに可能であったし容易でもあった。だが、芸術の真の価値は、歴史的文脈やその解釈のなかにあるのではなく、その作品自体のなかに潜んでいる。

そして「伝達されるべき意味」において伝統を踏まえつつも、今日でも個別に認められる鑑賞価値が存するものが、実は芸術の名に相応しいものなのである。

そしておそらくそのような性質を秘めた作品は、逆に、歴史的な位置づけという後知恵的な「解釈」にも十分に耐えることができるだろうことは想像に難くないのである。それが作品の本質とは無関係であるにしても。

Leave a Reply

You must be logged in to post a comment.