前田耕作『宗祖ゾロアスター』を読む #3

(引用開始)

「東方の三博士」とは、マタイの福音が説かれたパレスティナの人々にとっては、「マゴス」のことであったと芸術家たち[“東方三博士の礼拝”をテーマに競い合って取り上げた中世〜ルネッサンス期のヨーロッパの宗教画家たち]には分かっていたであろうか。

「星」に導かれてやってきて、「夢」を説いて帰っていった博士(マギ)たちというイメージには、占星術に通じたカルデアのマギと、夢占いにたけたメディアのマギが重ね合わされているように思える。しかし新約のマタイ伝には、旧約の「エレミア書」や「ダニエル書」が伝えるマギの姿影はすでにない。(略)

だが彼らが捧げた三つの贈り物に、古意の残存を見ることもできる。三つの贈り物=供物には、きっと彼らの出自と関係のある象徴的な内意がひそめられていたにちがいない。バンヴェニストのようにいえば、それによって社会が自らを表象する姿の総和を凝縮したものにほかならないからである。「黄金」は富、「乳香」は神に捧げられる薫香として祭祀を象徴し、「没薬」は血止めとしての薬効から、戦士に関わる象徴と考えたらどうだろう。

(略)「マタイによる福音書」のこのくだりほど象徴的な意味に満ちあふれている個所は無い。隠喩の豊かさが「福音」(よき便り)に宗教的な深い彩りを与えるのである。「マタイによる福音書」はマギについて語ったけれども、彼らの祖師ゾロアスターについては沈黙を守ったままである。だが旧いキリスト者たちは「東方」がペルシアであることも、「博士たち(マギ)」の祖師がゾロアスターであることも知っていた。(p. 28-29)

(引用終了)[ ]は引用者による補遺。

今回はやや長く引用せざるを得なかった。この重要な想像力を掻き立てる解釈的示唆がこれ以上の簡略さでもって説明されることは、著者の前田氏によっても考えられないことだったかもしれない。いずれにしても、ここで語られていることほどに聖書の「歴史的記述としての価値」を再評価できる箇所もあるまいと思えるほどの驚くべき指摘である。(正直、enteeは久しぶりにドキドキするほどの興奮を覚えた)


贈り物として東方の三博士がそれぞれ持参した品物が、インド=ヨーロッパの古代文化圏に伝わっていた社会の三階級を象徴するものだという示唆は大変興味深い。もしそれが正しいとすると、欧州の美術家たちが知ってか知らずか、三博士を「三種の異なる色の肌」で描き分ける(異なる人種であったという)ような解釈上の伝統(伝説)にも一定の意味があったことになるかもしれないのだ。このようなことを言ったら余りに「政治的に正しくない」類の言説となってしまうのであろうか? だが、われわれ現代人の倫理感覚でそれを言うこと(あるいは言わないこと)は、この際、あまり意味をなさない気遣いであろう。

三種の人種をそれぞれ特定の民族グループではなく、「社会階級」に当てはめようとするのには心理的抵抗がないわけでもないが、それが古代の(かつての)エリートたちの世界観と民族観を反映していたのではないかという推理の下であれば許されるかもしれない。

ひとつには、このことを福音書が言及することで、新しい救世主には世界中の異なる民族のひとびとが「敬意を表するさま」を表現していたのかもしれない。だが、同時にどの階級に属するかに関わらず、ヨーロッパの伝統的宗教画に描かれていたのは、ひとびとが新しい救世主に「かしづくさま」であったと解釈できるのかもしれない。そのことは、「キリスト」の象徴する意味を考えれば、不可思議なほどに正しい。世界は肌や出身地などの違いに関わらず、この一定の宗教ではなく一定の資本主義的な経済原理??すなわちひとつの救世的文明??の元に「かしずく」のであるから。

だが、こうしたこと以上に前田耕作氏の憶測がわれわれを驚かせるのは(そして信じ得るものとして迫ってくることは)、ゾロアスター教徒のマゴスのキリスト教との連関である。

ゾロアスター教と仏教との関連はさまざまな点で論じられてきたことであるし、それらの間にある相違点や、影響されたと思われる点など多々あるわけであるが、ゾロアスター教のキリスト教との関連ということがわれわれの興味を十二分にそそるわけである。

これについては追々必要に応じて論じるべきことを拡張していければと考えている。

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