“ヴィーナスの丘”と褥の皺と [1]

奇しくも7/25の「聖ヤコブの日」と重なった亡父の一周忌に

帆立貝のような二枚貝の貝殻は、サンティアゴの巡礼者たちが携行することで知られるもので、多少なりとも秘教に関連した「求道者の目印」である。その名を「ヤコブの帆立貝 Pecten jacobaeus」と呼ぶ。またキリスト十二使徒の一人、聖ヤコブが元漁師であったという聖書中の逸話からか、貝殻が聖ヤコブの紋章となっている。どのような裏の真相があるかはともかくとして、聖ヤコブと帆立貝は結びつけられて記憶されている。

Santiago (Shell)[1] Shell & Hyotan[2]

サンティアゴは「聖ヤコブ」を意味するスペイン語であり、そのまま使徒ヤコブの遺骸が見つかったとされるその地の名前となっている。欧州各地からその聖地に至る巡礼路が「サンティアゴの道」と呼ばれるのであるが、その最終目的地を目指す巡礼の道行きは、同時に「絹の道」の最終地点とも言うべきユーラシア最西端を訪れる旅でもある。9世紀に見つかったとされる遺骸が本当に聖ヤコブのものであるかどうかはともかくとして、キリストの十二使徒の一人は確実に大陸の西方に向かって旅をし、その「教化の旅」はついに大陸の最西端まで至ったのだということが十分に象徴的に表現されていると言って良いであろう。

図版引用先:

[1] Fremont Coffee

[2] The Organization for Security and Co-operation in Europe

参考サイト

フランス巡礼路紀行


一方、同じユーラシア大陸の東の果ての地から更に東の海を渡ったところに在る、「日出ずる国」の呼び名で知られたある小国へと「東方巡礼」をした若きユダヤ人がいた。その名をマーカス・サミュエル Marcus Samuelと言い、同名のマーカス・サミュエルという名のユダヤ人骨董商を父に持ち、1833年(天保4年)に骨董・装飾品店を開店したこの父によって、1871年に単身で日本に送られた息子サミュエル(当時18歳)は、湘南の海岸で拾った美しい貝殻を祖国イギリスに送った。貝殻の装飾品はロンドンで爆発的な人気を博し、それを売りさばいた父の商売は大繁盛した。一方、息子サミュエルは、1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業、日本の雑貨類のイギリスへの輸出を開始した。それが後のThe Shell Transport And Trading Companyとなる前身会社(M. Samuel & Co.)である。

息子マーカス・サミュエルは日本とアジア各国の間を貿易を通じて結びつける。「インドネシアで使用されない資源であった石油」の売り先として、彼は当然のように日本を選び、石油の売り込みを始めたのもサミュエルの設立した新会社ランジングサン石油株式会社を通してだった。この頃から彼は日本での想い出にちなんで、湘南で拾った貝の名称を世界で初めて自分の作らせた石油輸送専用タンカー、そしてそれに次いで彼の所有するタンカーの名前として次々につけ始める。

日清戦争の際、日本への資源や兵器などの軍需物資の流入を支えたのも彼である。その「功績」より、彼は明治天皇から勲章を授与され、また日英同盟条約が結ばれた年(1902年)、すでにビジネスで膨大な成功を収めたサミュエルは奇しくもロンドン市長となる。このときは日本の駐英大使とともにパレードに繰り出したとも言われている。

参考サイト

シェルについて@ Shell in Japan

日本の貝殻とユダヤ人 | 伝統文化・伝統芸能 (by zeami) @ 言葉も国境も越える!日韓リアルタイム翻訳掲示板

[この筆者は複数のソースを当たってこの記事を独自に書いている。閲覧者からの指摘を受けて記述を修正するなど非常に誠実に対応しており、信頼性が高いと思わせる著述である。]

The Prize: The Epic Quest for Oil, Money, and Power @ Answers.com (Fast Facts)

[このソースはあくまでも筆者の後のレファランスとしてここに留め置く備忘録が目的。]

アジア域における「帝国主義競争」への日本の参入がイギリスとの同盟関係なしにはあり得なかった点で、日英の結びつきは極めて緊密であった訳だが、それを実際に結びつけたのがユダヤ人商人マーカス・サミュエル(息子)だったのであり、彼の創業した後の大企業のトレードマークである「貝殻の象徴」が日本での想い出に由来を持つものであったことは、実に注目すべきことである。

後年、石油の輸出入をする貿易商社となったThe Shell Transport And Trading Companyは、当時競合であったオランダのRoyal Dutch社と合併して Royal Dutch Shell社となる。これは戦争の度ごとに国家の政策に翻弄され拠点や財産を失いつつも、第一次/第二次大戦の戦前戦後を生き延び、失われたものを必ず奪還し、「世界の石油製品の7割を占めるまでに」成長することになる。

油田開発と貿易活動を通して、世界中に拡散し始めた救世の装置、「ダイナモ」(内燃機関)に油を注ぎつづける役を演じる。それら動力のたくましい回転を維持することによって、「現世の救世主」としての資本主義の発展推進の面で、シェル石油はきわめて大きな役割を果たした。石油の開発と利権は戦争の理由ともなるが、同時にまた戦争の遂行を可能にする。ダイナモに注がれる油は、まさに20世紀を特徴付ける「文明的オペレーションとしての戦争」の原因であり、また結果でもあった。

Shell Trademark Now

さて、模式化されたShellのトレードマークは8つの「膨らみ」を周囲に向かって放射している。しては通常ならざる色である赤と黄色の組み合わせの有名な「貝殻」のトレードマークは、水平線の果てに輝く曙光を思わせるものでもあり、日本の歴史とシェル石油の深い関係を思えばあながち不自然とは言えない配色貝殻にであるとも言えるかもしれない。

kyokujituki (vertical)[3] one-quarter nisshoki[4]

日章旗(日の丸)から赤い16本の足が放射状に伸びる意匠の旗は、日本帝国海軍の海軍旗で「旭日旗」とも呼ばれるが、シェル石油のトレードマークは、それとの微妙な類縁関係を思わせる共通性を持っている。旭日旗の赤と白が、交互に配置される一連の放射状のストライプであると考えると、それは合計32本の縞模様であると考えることもできる。そうしたときシェル石油の8つの膨らみは、旭日旗の4分の1を切り取ってきたように看做すこともできるのである。

DEVO poster[5] 135-degree tilted[6]

ここでご覧に入れる図版は「日出ずる国」「太陽の帝国」たる日本の古色蒼然たるイメージで、日本国内においては大いに怨嗟と供に思い出されるものであるものの、こうした術語にしても象徴的イメージにしてもすでに海外においては定着してしまったものである事実はある程度受け入れた上で批評が始まるのである。

[2] いわゆる輝ける陽光、「亜細亜の曙 あじあのあけぼの」としての日章旗の亜種。「旭日旗」とも呼ばれる各方面に物議を醸すべき日本の力の象徴を縦方向に置き換えたもの。

[3] 戦前の「大本営発表」のスポークスマンとしての記事から、「大政翼賛」的プロパガンダまで、大日本帝国時代のあらゆる全体主義的な政策の支持をした《朝日新聞》を象徴するロゴマークにもなっている「1/4旭日旗」とも称するべき象徴。「四分の一」とは、秘教的な図像解釈学的には「世界の四隅の柱のひとつを担う」の意味として理解することが可能である。「世界の四大のひとつである」ことを宣言しつつ世界そのものを表現する手法である。

[4] テクノバンドのひとつDEVOの日本公演の際のポスター。象徴の意味に敏感な欧州発のイコノロジーの基盤を感じさせるデザインである。

[5] 135度時計回りに転倒させたシェル石油のトレードマーク。

四分の一を切り取ったものと考えれば、その4つの部分を組み合わせればその元の様子を再現することが可能である。こうして出来上がる図像が何を意味するのかについては、本稿のシリーズにおいて断定することは本稿の意図を超えるものとなろう。

Four shells 4-shell conbined

続く

Leave a Reply

You must be logged in to post a comment.