秘儀(密教)は顕教によって伝えられる

言葉や名前の由来というものは、時に教科書的な教養として広く受け入れられた類の理由付け、そして歴史的裏付けを伴う「正統的な」理由付けによって、「顕教」的に因果関係が説明され、納得が得られる側面と、そうした史的事実の如何に関わらず、結果的にある名称によって定着せられ、その由来についての知識(事実の伝承)が途切れてもなおそれが継続することによって醸し出される「二次的な暗示」という、言わば「密教」的な側面の、二面性を持つことが多い。

例えば、われわれの属するこのエイオンにおけるキリスト(救世主)の名前が“Jesus”であるという経緯は、「彼の生きた時代と場所において、きわめてありふれた名前であって、なんら珍しいものではなく、その名前が“Jesus”となったのは単に偶然に過ぎない」とするような、史的事実のみを勘案して説明できる面があるだろう。これは言わばもっとも広く受け入れられるだろう理由付け(歴史的裏付け)による「正統的」かつ「顕教」的な説明の方に当たる。かつて筆者が拙論「Jの陰謀」のシリーズを通して説明を試みたように、あるアルファベット記号についての「秘教的な意味合いの暗示」という観点からすれば、救世主の名前が「Jから始まる特定の記号でなければならなかった必然的な理由がある」あるいは「特定の意味合いを含むものでなければならなかったためにその形象(かたち)Jに変容した」ということになろう。これは名称の意味の「密教」的、「秘教」的な側面である。


そしてこれら顕教的な説明と密教的な説明というのは、互いが互いを排除し合わない。むしろそうしたそれぞれの説明によって、名称がそれに決まった必然性は強化され、確実に歴史化されるのである。もう少し正確な記述を試みてみよう。すなわち、顕教的な歴史的事実は、秘教的伝統が何かを後世へと伝えようとするときの手法に、体の良い「口実」を与えるだけなのだ。

そもそも密教的な教えというものが、いかなる顕教的で差し障りのない建前的な説明によっても偽装されていない、などというケースがあるだろうか? あらゆる密教的なメッセージというものは、誰によっても受け入れられ易い体裁を整えられてわれわれの目の前に顕われる。また、場合によっては「史的事実」という反論し難い裏付けは、偽装というべき程度を超えてしまうと、最も重要な意味伝達の意図を攪乱して、隠匿してしまうこともある。したがって「史的事実」というものが、唯一無二の名前の由来の説明であるとする考え方では、どこまで行っても歴史的真相や秘教的真実に迫るのには足りないであろう。そこにあるのは、解釈や総合化という知性の関与しない単なる「事実」の堆積であろう。われわれに要求されることとは、そうした価値判断を伴わない「事実」の蓄積ではない。そのようなことに学究の時間も情熱も傾けられるほどの時間をわれわれは持っていないのである。

歴史的事実を最大に重要視する顕教的な宗教研究家にとっては、こうした秘教的伝統の存在を肯定する研究家の歴史解釈を恣意的なものだと非難するかもしれない。

だが、こうした名称に関する歴史的(事実的/客観的)記述と、秘教的伝統の保持する伝承への熱意は、互いを排除し合わない態度でそれぞれがそれぞれを利用、ないし黙認することで、その重要なメッセージを後世に伝えるべく生き残ってきたのである。

参考拙文

「キリスト」と「反キリスト」への一瞥(ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [3])

関連拙文

“ヴィーナスの丘”と褥の皺と [2]

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