まったき逆説としての小沢の「行為」

毎度のことながら、政治に関わる発言をするには勇気がいる(笑止と仰るならそれで結構!)。自分は別に世間に対して影響力のある人間でも政治のプロでもないので、その発言で命が狙われるというほどのリスクを負う訳ではない(だろう)が、友人関係でどんな信用の失墜があるか分からないので、今後世の中が激変すれば「村八分にされる」などの意味で、まったくリスクがないという訳ではない。

将来政治体制がもっと悪化した時に、今自分が行なっている政治的発言が自分にとって「不利な証拠」にならないとも限らない。でも「必要なら政治的な発言ができる自分」を確保し、何かがおかしいなら「おかしい」と言える自分の言葉、論理的な一貫性、そしてまたその姿勢をどんな世の中になっても維持できるか、という自分に対する挑戦の中に自分を追い込む意味でも、今の時点で思うことを喋ることにいささかのためらいがあってもいけないのだ、本当は。何しろこの時点でおかしいことをおかしいと感じない(あるいは言わない)人間が、本当にオカシなことになった時に、何かを突然感じたり主張を開始したりするということはありそうもない話である。発言はどちらにしてもひとつの「行為」なのだ。敵の首を実力で捕りにいくことばかりではない。

さて、現在まさに進行中の小沢民主党代表の引責劇についてである。

小沢に対するネガティブな評価というのは今回に始まったことではない。彼が信用ならない人物だというような評価は、これまでも広く見受けられたし自分も全然信用などしていなかった(なにしろ政治家ですよ、彼は)。とりわけ今回の密室における福田首相との「大連立」についての会談も不審な点がないわけではない。したがって、ネットで見かけるプロの評論家による論評の類も、そのほとんどがこのタイミングで大連立構想を“検討”したことや、はたまた首相との密会を設定したこと自体についてなど、いろいろな側面から批判を受けているのであって、それらの多くが至って真っ当とも言い得る面を持っている。そればかりか、そうした意見の多くが今回の行動が「小沢の失敗を裏付けるものだ」「傲慢だ」「策士、策に溺れる」などの基本的な評価を基に下されているもので、理解を示すことも可能である。だが、当方はそれ自体を驚くということはないし、呆れもしない。そもそも自民も民主も似た様なものだという基本的な見解そのものに変わりはないので、それが多くの人々の期待を裏切るものだと言うことが火を見るより明らかであっても、そもそも今回浮上した「大連立構想」を取り立てて騒ぎも嘆きもしない。そのことは皮肉まじりに前回の文章でも書いたばかりだ。

しかし、ここでわれわれの想像力の試煉があり得る。仮に記者会見で小沢が話したこと全てに嘘がなかった!としたら、これは何を意味するのかということである。自分の考えは、今回の小沢と福田の会談も、その構想の「失敗」も、合衆国政府からの隠然たる圧力の実在なしには何も説明できないとするものだ。

想像して欲しいのは、ひょっとすると皆から一様に叩かれている小沢だけがまともなことを言っていて、それ以外の人は小沢の真意も理解せずに、他人の評価を基にそれを無批判に繰り返すことをしているだけ、とも言い得るのだ。

当方がこのようなことを言い出したことにはいくつかの理由がある。


重要過ぎることなので、まずはここに朝日新聞に掲載された小沢発言を全文そのまま転載する。じっくり何度も読んでみる価値のある発言である。ひょっとすると、自分は小沢に対してまったく間違ったイメージを植え付けられていただけなのかもしれない。万が一にも、彼は常に誠実であってわれわれが誤解してきたということではなかったのか? この視点は、日本が完全に米帝の支配下にあるということ、そしてそれからどうにか抜け出す方策はないのか、というのを真剣に考えている人間にしか分からないものだろう。メディア一つをとっても、今彼を悪者に仕立てるのに戦々恐々としているのは産経であり読売だ。彼らが米帝の利益を損なわないように敢えて小沢のネガイメージの醸成をしているのはほとんど疑いがない。

(転載貼り付け始め)

2007年11月04日18時48分 朝日新聞

 民主党の小沢代表が4日、開いた辞意表明会見での全発言は以下の通り。(別に質疑応答での全発言)

 民主党代表としてけじめをつけるに当たって私の考えを述べたい。福田総理の求めによる2度にわたる党首会談で、総理から要請のあった連立政権樹立を巡り、政治的混乱が生じた。民主党内外に対するけじめとして、民主党代表の職を辞することを決意し、本日、辞職願を提出し、私の進退を委ねた。

 代表の辞職願を出した第1の理由。11月2日の党首会談において、福田総理は、衆参ねじれ国会で、自民、民主両党がそれぞれの重要政策を実現するために連立政権をつくりたいと要請された。また、政策協議の最大の問題である我が国の安全保障政策について、きわめて重大な政策転換を決断された。

 首相が決断した1点目は、国際平和協力に関する自衛隊の海外派遣は国連安保理、もしくは国連総会の決議によって設立、あるいは認められた国連の活動に参加することに限る、したがって特定の国の軍事作戦については、我が国は支援活動をしない。2点目は、新テロ特措法案はできれば通してほしいが、両党が連立し、新しい協力体制を確立することを最優先と考えているので、あえてこの法案の成立にこだわることはしない。

 福田総理は以上の2点を確約された。これまでの我が国の無原則な安保政策を根本から転換し、国際平和協力の原則を確立するものであるから、それだけでも政策協議を開始するに値すると判断した。

 代表の辞職願を出した第2の理由。民主党は、先の参議院選挙で与えていただいた参議院第一党の力を活用して、マニフェストで約束した年金改革、子育て支援、農業再生を始め、国民の生活が第一の政策を次々に法案化して、参議院に提出している。しかし、衆議院では自民党が依然、圧倒的多数占めている。

 このような状況では、これらの法案をすぐ成立させることはできない。ここで政策協議をすれば、その中で、国民との約束を実行することが可能になると判断した。

 代表辞任を決意した3番目の理由。もちろん民主党にとって、次の衆議院選挙に勝利し、政権交代を実現して国民の生活が第一の政策を実行することが最終目標だ。私も民主党代表として、全力を挙げてきた。しかしながら、民主党はいまだ様々な面で力量が不足しており、国民の皆様からも、自民党はだめだが、民主党も本当に政権担当能力があるのか、という疑問が提起され続けている。次期総選挙の勝利はたいへん厳しい。

 国民のみなさんの疑念を一掃させるためにも、政策協議をし、そこで我々の生活第一の政策が採り入れられるなら、あえて民主党が政権の一翼を担い、参議院選挙を通じて国民に約束した政策を実行し、同時に政権運営の実績も示すことが、国民の理解を得て、民主党政権を実現させる近道であると判断した。

 政権への参加は、私の悲願である二大政党制に矛盾するどころか、民主党政権実現を早めることによって、その定着を実現することができると考える。

 以上のような考えに基づき、2日夜の民主党役員会で福田総理の方針を説明し、政策協議を始めるべきではないかと提案したが、残念ながら認められなかった。

 それは、私が民主党代表として選任した役員から不信任を受けたに等しい。よって、多くの民主党議員、党員を指導する民主党代表として、党首会談で誠実に対応してもらった福田総理に対しても、けじめをつける必要があると判断した。

 もう一つ。中傷報道に厳重に抗議する意味において、考えを申し上げる。福田総理との党首会談に関する報道について、報道機関としての報道、論評、批判の域を大きく逸脱しており、強い憤りをもって厳重に抗議したい。特に11月3、4両日の報道は、まったく事実に反するものが目立つ。

 私の方から党首会談を呼びかけたとか、私が自民、民主両党の連立を持ちかけたとか、今回の連立構想について、小沢首謀説なるものが社会の公器を自称する新聞、テレビで公然と報道されている。いずれもまったくの事実無根。党首会談、および会談に至るまでの経緯、内容について、私自身も、そして私の秘書も、どの報道機関からも取材を受けたことはなく、取材の申し入れもない。

 それにもかかわらず事実無根の報道がはんらんしていることは、朝日新聞、日経新聞を除き、ほとんどの報道機関が、自民党の情報を垂れ流し、自らその世論操作の一翼を担っているとしか考えられない。それによって、私を政治的に抹殺し、民主党のイメージを決定的にダウンさせることを意図した明白な中傷であり、強い憤りを感じる。

 このようなマスメディアのあり方は、明らかに報道機関の役割を逸脱しており、民主主義の危機であると思う。報道機関が政府与党の宣伝機関と化したときの恐ろしさは、亡国の戦争に突き進んだ昭和前半の歴史を見れば明らかだ。

 また、自己の権力維持のため、報道機関に対し、私や民主党に対する中傷の情報を流し続けている人たちは、良心に恥じるところがないか、自分自身に問うてもらいたい。

 報道機関には、冷静で公正な報道に戻られるよう切望する。

(貼付け終わり)

「国際平和協力に関する自衛隊の海外派遣は国連安保理、もしくは国連総会の決議によって設立、あるいは認められた国連の活動に参加することに限る」というのは、これまでも小沢が繰り返し自説として繰り返して来たことだが、これが自衛隊そのものの存在を認知しない立ち場や、非暴力主義や絶対平和主義の立ち場からは、武力行使や海外派遣を一部認めるその意見を危険なものと看做すのは十分に理解できることだ。憲法9条の議論とも相まって、「国際紛争解決の手段として武力の使用を一切認めない」という立ち場まで議論を押し戻したい立ち場からすれば、「国連安保や国連総会の決議を海外派兵の条件とする」ということを認めることは、左派の政治的敗北を意味し得る。何故そのようなことが言えるのかと言えば、当方自身、何を理想とするかと言えば、絶対非暴力、非戦、反軍備である。[ここでは詳述しないが人類が滅びるとすれば、それは人類が近視眼的な保身のために溜めに溜めた殺人のための兵器が、天に唾するが如く、われわれ自身に降り掛かるためであろう、という否定的な予想が余りに容易にできるからである。ここはひとつ「完全な非暴力」を大方針としなければ人類は滅びるしかないのだ。]

だがそんなことは承知の上で、小沢の言うこと(自衛隊の当面の肯定、そして海外派兵の条件的容認)を一度虚心坦懐に受け止めれば、彼の目指すところが実は日本の外交方針をアメリカへの「単独講和」路線から切り離し、当面国連を重視しあるいは尊重しそれを真の意味での国際社会と看做し、それに従うということを構想していることが読み取れるのである。これは日本をアメリカの圧政から離脱させるのを可能にする、唯一にして最良の方法であり、真の《国際社会》への納得できる説明である。それは絶対非暴力の理想からは一時的に遠のくかもしれないが、現在起こりつつあるアメリカの具体的な横暴を認めないことには直接通じる。

今回何度も小沢が繰り返したように、この方針転換は質実共に極めて大きな(そして大いにリスクも伴う)政府の方針転換と言うことができる。小沢と福田の二人は、連名で日米間の非対称な同盟関係を指して、「これまでの我が国の無原則な安保政策」と呼んだのである。そればかりか、それを「根本から転換し」と言っている。これはトップ記事になる価値のある大事件である。

小沢が今回も協調するように、どうして二大政党制が彼の悲願であるのか、その理由はよく解らない(当方は、二大政党制が国民のためになるのかどうか解らないという意見を持っているから)。それについてはいずれ解る日が来るか、論じるべき日があるかもしれない。それは棚上げしておこう。

「私の方から党首会談を呼びかけたとか、私が自民、民主両党の連立を持ちかけたとか、今回の連立構想について、小沢首謀説なるものが社会の公器を自称する新聞、テレビで公然と報道されている。いずれもまったくの事実無根。党首会談、および会談に至るまでの経緯、内容について、私自身も、そして私の秘書も、どの報道機関からも取材を受けたことはなく、取材の申し入れもない。

 それにもかかわらず事実無根の報道がはんらんしていることは、朝日新聞、日経新聞を除き、ほとんどの報道機関が、自民党の情報を垂れ流し、自らその世論操作の一翼を担っているとしか考えられない。それによって、私を政治的に抹殺し、民主党のイメージを決定的にダウンさせることを意図した明白な中傷であり、強い憤りを感じる。」

今回、当方があろうことか「小沢を信じる」気になったのは、以上の彼の抗議文の行間から感じられる真の怒りが通じたためである。田中角栄は、アメリカ以外の外交チャンネルを開き、アメリカの機嫌を大いに損ね、スキャンダル事件で失脚させられたが、その田中よって小沢が育てられたということを考えると、小沢こそが自民の中にいる「非米・多元化外交」論者であることと矛盾しない。

われわれはマスコミをはじめとしてマジョリティが信じ始めることを、「実は真反対なのではないか」と疑うということをいまこそ肝に銘じて行なうべきかもしれない。

もうひとつ想像できること。それは、われわれのこの想像が正しく、小沢が嘘をついていないとしたら、そうとう難しい綱渡りをして来た筈の小沢だが、彼は今がかなり大きな危険の中にいる時だということができるだろう。そして日本そのものも。だが、それが「政治的にも経済的にも今後崩壊の一途を辿らざるを得ないアメリカ合衆国」との付き合いを根本的に見直し、自分たちを彼らから切り離し、またアメリカが今後世界で引き起す可能性のあるより一層酷い暴力沙汰の罪科に連座しないための好機であるという意味でも、「負う価値のあるリスク」かもしれない。問題は、ほとんどの国民によっても、政治家の大半によっても、愛すべき平和主義者の大半によっても、(日本の、ではなく)世界的な平和を勝ち取るためにはアメリカとの対立(ないしは駆け引き)が避けられないことがうまく理解できないこと、そしてアメリカの横暴を助けないという大目的を実現するために、われわれ自身も大きな痛みを伴う妥協が避け難い、そのメカニズムに正面切って対峙できないこと、なのではなかろうか。

「私が申しているのは生活第一といって我々が国民に約束した政策が協議によって現実のものになるなら、それは大変いいことだということだ。なぜなら政治は何のためにあるのか。国民にとって必要なことを実行するための政治だ。それが実行されないでいたのなら政治の意味がない。」(連立「政策実行されるなら」 小沢代表会見、質疑応答 2007年11月04日19時23分)

小沢の言葉の誠実を信じるなら、彼が公約その他を通して「生活第一」と言っていることの意味は、中身のない単なるレトリックではなくて、「アメリカによる外圧」を想定しているもので、そうした「アメリカによる専横や国民の財産の横領などの無い国民の生活」のことを言っているのではないかと、読めてくるのである。

(暗殺、自殺、事故など、どんな原因であれ、小沢が妙な死に方をした時に、せめて彼の一連の行動の真意がどこにあったのかが分かるような覚え書きを残しておいてもらいたいものだ。)

国連の活動以外は自衛隊、軍隊を海外に派遣しないということは、今までの政府の方針の大転換、憲法解釈の大転換だ。私がずーっと主張してきたことだ。そういう意味で、私は直接今、国民生活に利害を及ぼすものではないが、さっきも言ったが安易な軍隊の海外派遣はどのような結果を国民にもたらすか、歴史をひもとけば分かることであり、私はそういう意味で二度とこのような過ちを繰り返さない、そのためにも国際社会で国連を中心にしてみんなと平和を守っていくために日本は最大限の努力をしていかなくてはいけないと、ずーっと主張してきた。またそれは国の将来にわたっての国民生活の安定と安全のために大事なことだと思い、私個人としてはこの大転換を福田総理が認めたという一事をもってしても、政策協議に入るということがいいんじゃないかと思った」(連立「政策実行されるなら」 小沢代表会見、質疑応答 2007年11月04日19時23分)

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