宿命論を越えて

プロメテウス朗読会の最終回となったその日、梅崎さんたちが宿命ということについてと、そのわれわれの精神への作用について言及されていたのだが、今になって思えば実に印象的であったので、それを書き留めておくことにする。

宿命論は、理解できる。あなたがどう関与しようが(関与しまいが)、すべてはどうなるか決まっているという考えだ。宇宙はその開闢以来、宇宙の内部で起きつつあるあらゆる出来事は、その寸前までに起きていた出来事の影響を受けて、寸分違わずどうなるか決まっているという考えだ。因果の連鎖。原因があって結果がある。理由があって効果がある。なるほど。これは宿命論でもあると同時に機械論的だ。つまりメカニズム的に宇宙を解釈するという(こう言って良ければ)ひとつの純然たる人間的思想だ。


こうした宿命論的考えに対し、一体われわれはどのような反論を企図すべきであろうか? そもそも反論を試みるべきなのであろうか? いやおそらくその必要はない。現象面だけに限って言えば、宇宙の内側で生起しているあらゆる出来事はあらかじめ決まっているというのは、ほとんど議論の余地なく確かなことだろう。

しかしだ。生きているわれわれにとってこれが問題になる(らしい)ことは、その宿命性の認識によって、その当人が生きる目的意識を失ったり、生きる気力を失ったりするというわれわれの精神への作用が無視できないからだ。それについては、私はすでにどのように考えれば良いのかという自分なりの解答を得た。

宿命を認めることがわれわれのやる気や生きる気力に影響をもたらすということは、その機械論的な宇宙の運動の中に、自分の精神運動さえも含めてしまうという誤謬による。われわれの精神が機械的・肉体的な運動によってもたらされる二次的な「現象」に過ぎないのだとすれば(つまり肉体が精神活動を造り出すのだとすれば)、われわれのやる気が失われるその原因はどうにも排除しようがない。だが、機械的/連鎖的に進行しつつある宇宙内におけるあらゆる出来事を、われわれは客観的に眺めることができるという事実。その事実一つをとっても、われわれの精神というものが、そのような機械的な運動の次元とは異なった世界で、すなわち物質とは別の仕方で、《現に存在している》ということを意味している。

だが、このような難しい話はこの際どうでもよい。むしろ大事なことは次のことだ。宇宙という世界の内部における宿命性によって、われわれの世界は何も変わらないと考えてしまいがちな、他でもないわれわれの心は、われわれの人生を一体誰のものだと考えているのか、ということなのだ。宿命性を信じがちなその心は、世界をより良い場所へと変えることに関心を向けながらも、自身が生きることについての、それ自体が自律的に価値を持った作業に対して、本当の意味で関心を抱き切っていない。

「すべては決まっているから自分は何もしなくていい」のか? もし、「すべては決まっている」という世界に対する観察から、「何もしなくていい」という結論が導き出せるとすれば、「何もしない」という自分の選択が、その後の自分の人生さえ造り出している(いく)という構造に気付いていない。宿命と呼ぼうが何と呼ぼうが、何もしなくていいと“積極的”に結論を下したその決意によって、まさしくその後の人生を「意識的に」選択した自分がいることに気付いていない。

よかろう。それなら百歩譲って「宇宙の内側の出来事はすべては決まって」いても、自分に都合の良い、自分にとって望ましい状況を、この世界の内部で造り出そうという、その欲望は、少なくとも自分の人生の在り方自体を変えていくであろう(いわゆる倫理的な意味で、良くも悪くも)。つまり、欲望したその時点で、その人生は「正義を具現化しなければならない誰かのための抽象的な世界」ではなく、あなた自身のためのあなたの世界の現実となる。そして、それによって造り出される人生は、辛苦であっても甘美であっても、あなた自身が引き受けなければならない(あるいは、引受けるべき価値のある)「現実の人生」となるのだ。

だから、宿命がこの宇宙に客観的に存在しうるのかどうか、などという問いは、その設問自体が最初から間違っているのである。あなたが参加し始めればその世界はあなた自身のための場所として機能し始める。誰のための世界でもなく、ほかならぬあなた自身の世界としてこの宇宙をあらしめるために動き始めるのである。他者の救済も、自己犠牲も、理想の実現も、愛の実践も、それらはすべて、客観的な世界において、ではなく、自分の世界の中で行なわれることだ。

そしてあなたが作り上げ始めた「あなた自身の世界」を生き始めた時、どうして「客観的な宇宙」そのものの宿命性について、などという愚問に立ち止まらねばならなかったのか、その盲目性に気付くであろう。

宿命性はある。だがあってもなくても、それが「あなたの実現しようという世界」と、一体どんな関わりがあるというのだろう。それに気付いた時に、あなたは他の誰のものでもない、あなた自身の人生を自分で切り開き始めるのだ。悟りの第一歩とはまさしく、自己の世界への関与自体が、あなたの住む世界を作り出している仕組みに気付くことである。

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