橋本治の『日本の行く道』についての備忘録

贔屓にしている内田樹氏が熱心に取り上げていたので、迷わず取り寄せて読んでみた。以下は、橋本治の『日本の行く道』(集英社新書)についての若干の読後メモ。

内田樹のサイト:

学校の怪談ほか

まず引用から。

光化学スモッグが日本で発生した二か月後には、アメリカで「マスキー法」と呼ばれる大気汚染防止法が成立します。「大気汚染の原因である自動車の排気ガスを規制せよ」です。これで日本の自動車業界が大騒ぎになるのは、日本がアメリカに自動車を大量に輸出していたからですが、アメリカの排気ガス規制をクリアしないと自動車の輸出は出来なくなります。

(略)

「こんな規制が出来たら、お前のところは自動車の輸出が出来なくなるだろう」という、日本いじめの一面だってあったかもしれません。そして、一九七〇年のアメリカの自動車排気ガス規制は、もしかしたら「環境に配慮して」ではなかったのかもしれません。(p. 136)

これについては、「これには、「大気汚染によってアメリカ人が健康を害し、命をも危うくする」という、アメリカの「国内事情」の方が大きかったかもしれません。」と、著者は直後に断っているものの、この法律がもたらした結末について、誤解を招く様な言い方になっている。これはどうかと思う。

Wikipediaでも読めるが、「自動車メーカー側からの反発も激しく、実施期限を待たずして74年に廃案となって」いるというのが、マスキー法についてのひとつの事実であるが、この反発は当然のことながら、合州国内の自動車メーカーからのものである。当時、日本の自動車メーカーが反発を表明することなど出来なかったからである。そもそも日本車が選択的に閉め出されなければならないほど、日本車の対米輸出は高まっていなかった。

それよりも重要なのは、橋本氏の書籍で指摘がなかったこととして、この悪名高きマスキー法の規制のもとめる値を唯一達成したのは、日本の自動車メーカーのホンダだった(有名なCVCCエンジンによって)ということである。Wikipediaを信じるなら、マスキー法によって定義された排気ガス規制は、事実上、1994年になってようやく達成された。逆に言うと、ホンダは他メーカーが当たり前のように達成できるようになる20年以上前に、独自に達成したことになったということである。加えて、このCVCCの成功が、その後の日本車の対米輸出を激増させるのであり、日本車を閉め出すどころか、日本車の総合評価を一気に引き上げることに寄与したのである。マスキー法について言及するなら、むしろ日本の技術がスゴいということを言っている別の章でこそ取り上げるべきだったのだ。

徳川家康は、豊臣秀吉によって、当時まだ「一面の葦の原」だった江戸に移転を命じられ、一から町づくりを始めました。そういうことをやった人だから、豊臣家を倒して天下を取った後になっても、「君、あっちに行って、あそこをなんとかして」という人事異動を大名に命じたのです──その結果、日本全国は平均化して安定したのです。(p. 136)

これは、維新後の明治政府よりも徳川の方が先見の明があったというようなことを証したいために書いているのかもしれないが、そもそも江戸が「一面の葦の原」だったという、旧い江戸観、ないしは東国観に根ざすもので、その前提がすでに間違ったものだとされているので、その前提によって語ろうとしていることはあまりアテにならないと思われても仕方あるまい。

それについては「日本は瑞穂国」だというのは完全な謬見であると主張する網野善彦の『「日本」とは何か』にも詳しい(p. 195 東国の都──「未開な後進地東国」の誤り)。この本には初っ端から「環日本海諸国図」という富山県が作った地図が転載してあり、それが、この書籍全体に匹敵するほどのインパクトを持っている。

環日本海諸国図

この年(昭和9年・1934年)、数えで八十六歳になった最後の元勲西園寺公望は、「重臣会議」というものを招集して、元勲に変わる新しい「総理大臣推薦システム」と作ります。そして、六年後に死にます。その後の日本製時は「重臣会議」を中心にして動き、これは一九四五年に日本が戦争の敗北を受け入れた段階で終わります。問題は、そういうシステムが本当に終わったのか、ということです。

 主権者が天皇から「国民」に変わっても、与党のトップである総理大臣の選出は、相変わらず「密室の中で与党の実力者が話し合って決める」という習慣として残っています。(p. 189)

これはなるほど、思わせる記述である。

日本は戦争のない江戸時代に「職人=技術者」の成熟を可能にして、これが工場制手工業という量産システムを可能にしたのだと、私は考えています。それが「産業革命=近代化」を達成してしまった日本の前提で、だからこそ、「製造に携わる優秀な職人が多くいれば、別に産業革命の機械化をする必要なんかない」という、ねじれた事実もあるのです。この一見矛盾した条件こそが、日本を経済戦争の勝者たらしめる原動力になったのだとしか私には考えられません。(p. 218)

明治維新になって近代化された日本では、「軍隊」というものも生まれます。江戸時代には、行政担当者がすべて武士だったから、「国に所属する軍隊」というものは不必要でした。でも「武士」という階級が廃止されれば、「国家に所属する軍隊」というものも必要になります。(p. 221)

赤穂城がお家断絶取り潰しになった時、開城のために江戸から赴いた一団は、幕府側の「軍隊」ではなかったのか? また、幕末に長州や倒幕側としたのは戦争であり、それを行ったのは「軍隊」ではないのか?(もちろん、主旨とは関係ないかもしれないが、彼自身の主張を強化するのには役立たない)

イギリスで起こった産業革命は、「物が足りないから、大量生産をして必要なものを作り出す」などという、しみったれた理由によるものではありません。商品を大量に生産すれば、必ずそこに「余る」という事態は出現するのです。「必要だから大量に生産をする」は一時的なもので、「機械化して恒久的な大量生産システムを作る」というのは、「自分たちが必要とする物を作る」というのとは違います。それは、「自分たちが必要とする以上の物を作り出す」なのです。(p. 221)

人間の文明活動に関して産業革命の助長したことについては、否定するまでもなく「正しい」のであるが、「余るという事態」、すなわち「余剰生産物」の出現を許したのは、産業革命ではなくて(それは確かに「幇助した」のだろうが)、自分が食べる以上の「余剰生産物」を発生させた最初の張本人としての人間の活動は、何と言っても「農耕の発明」にあったわけなので、この十八世紀の「産業革命」だけのせいにしかねない言い方には、やや受け入れ難い単純化が潜む。

大量に作った物を売って「利益」を得るためです。必要があろうとなかろうと売りつける──「需要がなかったら、そこに需要を作り出してでも商品を売る」という、二十世紀後半のマーケティング理論では当たり前になることが、産業革命によって起こるのです(p. 222)

産業革命が、人間の余剰生産物を爆発的に増加させ、「不要な物」の買い手を求めて、史上の開拓を行い始め、また買い手がいなければ(北極圏のエスキモーに氷を売ると揶揄される様な)「啓蒙」によって、買い手としての他者を(セールス活動、その他によって)“生産”することを大いに促進したことが事実である以上、二十世紀のマーケティング理論の下地を十八世紀の産業革命が作ったという言い方は間違ってはいないのだろう。だが、どこで真の原因の特定をするのか、と言えば、それはどこまで因果の連鎖を遡るかというわれわれの想像力の射程距離次第なのである。

世界は、明らかに行き詰まっています。その「行き詰まっている」の原因になるものは「産業革命」というところにあって、だからこ私は「産業革命の前に戻せばいい」と言うのですが、私の言う「産業革命の前」がかなり複雑なものであることは、もうお判り頂けるのではないでしょうか? 行き詰まっているのは、「産業革命の達成=近代化の実現」を「やらなければならない」と思った国家の立場なのです。(p. 222)

これは断っておくが、人間の文明活動の「誤り」がどこで起きたのか、ということを敢えて問わなければ、橋本氏の主張の主旨を理解しようとすることは可能だ。少なくとも、十八世紀の産業革命(内燃機関の発明)が、その直後にもたらされた現象が、人間を疎外する可能性のある近代化であり、それをこぞって促進しようとしたのが、近代化に目覚めつつあった近代国家であったことは、ほぼ動かしようのない事実だし、日本においてもそうした盲目的な西洋文明への追従が、国家的な目標として明治を境に掲げられ、推進させられたことは事実なのだから。その点で、「行き詰まっているのは、国家の立場なのです」という断定は、きわめて強く説得力を持って響いてくる。

(その他の読後感)

以上のように、全体的には、なるほどと思えることもそれなりにあるが、大学生などによる「受け入れやすさ」を狙っての戦略的な書き方なのかもしれないが、喋りまくったインタビューからテープ起こしをして編集者が作った様な文章のスタイルや、やたらに引用符(カッコ)を使う言い回しなどが、鼻に付き、集中出来ない面もあった。何よりも、折角の重要な主旨を疑ってしまいかねない記述が枝葉のところで散見されたので、結論を支持するための全体自体が間違っているかもしれないと思わせてしまっているところなどは実に残念である。

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