EconomicalはEcologicalだ(この際、断言)

畏友いしかわはじめ氏のblog「エコロジカル・エコノミカル。」に刺激を受けて、書く。Linklogのtrackback機能が死んでいるのでこのようにリンクを貼る。言うまでもないことだが、彼の文章は心から楽しませてもらったし、その主張を一旦受け入れての話であるし、ましてやタメグチを叩ける間柄だからできる「問題提起」ってものに過ぎねー。したがって「反論でさえねえんだ」ということで、その辺りは外野の方々にはじゅうじゅう承知して頂きたいんである。前置きは以上。

「EconomicalをEcologicalと混同するな」という議論は、サービスを受ける側の論理としてならその問題圏設定はじゅーぶんに理解できる。したがってエコロジカルを装ってサービスそのものを劣化させるのはゴマカシだというその主張も大筋は共感できる。

だが、その問題圏を一旦取り除いて、自分がより良いサービスを受ける権利があるとかの考えを一旦忘れて考えると、「economicalは大体の場合においてecologicalだ」というのは認めても良さそうな気もするのダ。

そもそも大量生産・大量消費は大体においてecologicalではない。人間の生産活動そのものが「ecologyに非ざるもの」である以上、生産行為にコミットしない生き方というのが一番ecologicalである。人間全員が一斉に集団自殺すればいちばん「地球にやさしい」。それが極端なら、人間ぐうたら必要のない時はゴロゴロ寝て過ごし、必要な時だけシブシブ生産活動に従事する、というようなナマケモノの生き方を全体でするのが、おそらく2番目くらいに環境負荷が低い。サービスだって無駄に笑顔を作ったり「いらっしゃいませありがとうございます」などと連呼しない方が個人の消費するエネルギーは少なくて済むかもしれない。少なくて済めば食べるメシの量も減らせる。これはエコロジカルだ。

その延長で考えると、これから来る可能性の高い「長期的で深い景気停滞期」というのは、長い眼で見ると、「ここ百年で一番二酸化炭素排出量が少なかった時期であった」などという観測結果を招来させる場合もあり得る(ホントか?)。もちろん、そんな「長期的で深い景気停滞期」が、戦争のような極端な大量消費(資源消費)に結びつく可能性もあり、その場合は全く逆の結果になる可能性もあるケド。

いずれにしても現在進行しつつある金融危機というのは、小手先の処置だけでは同じことを繰り返すばかりのハナシで、生き方そのものを切り替えて、「スローに生きる」みたいなことも、十分に視野に入れなければならない問題を自分たちに突きつけているのだとも思える。つまり「お金はない。ならばお金を使わない生き方を」みたいな話だ。あるいは、せめて他人のグウタラな生き方やサービスに対する寛容を涵養するとか(シャレです)。

むろん、大量生産・大量消費という世の中を成り立たせる経済基盤そのものを変えずに、単に手を抜けるところだけ手を抜いて行く、という様なやり方をして行くと、公害が大発生した60-70年代の日本や、人口が優に13億を越えると言われる隣国で今進行しつつあるような「危ない世の中」になる可能性もある。今の経済的な基盤の上で、ecologicalを追求することが、「手を抜く」どころか「手をかける」ことであるのは、確かにもっと共有されてしかるべき常識だとは思うが、バイトスタッフに分かってもらうには、さらに一手間掛けなきゃならないのは確かだろうねえ。

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