読書録:チャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒〜アリストテレスの再発見から知の革命へ』

中世の覚醒画像

昨年末からずっと追いかけているヨーロッパ中世史。サブジェクト次第で、該当時代のレンジが変わってしまう「中世」という言い方もそうとう曖昧だが、いわゆるキリスト教発祥の前後辺りから、例の「12世紀ルネサンス」までの間の精神史にはまっている、と言い換えられる。

この神話は多くの文化に共通するもので、ある特定の文明は他の文明から何一つ借用したり押しつけられたりしてはおらず、独自の源泉から独自に発展したという観念である。「われわれの」文化は正真正銘自前のものだが、「彼らの」文化は派生ないし模倣したものに過ぎないと──その国籍にかかわらず──偏狭な愛国者は主張する。他のあらゆる伝統的文化に対する西欧文化の優越を確立したいと望むものたちにとって、ヨーロッパが初めて経験した知的革命の物語は、当惑を禁じ得ないものなのだ。(page 24)

現下の厳しい世の中の状況は、毎日の生活の中で相当メンタルな疲労を強いるものだが、この歴史世界に遊んでいる間は、知的興奮で一時苦痛を忘れる。現実逃避が目的ではないが、結果的に「逃避」できている。余りにも長く続くストレスに、われわれは耐えることができないのだ。それくらいの息抜きは許されるだろう。

読む片先から忘れて行く自分の記憶だが、忘れぬうちにメモを取っておく。

リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒〜アリストテレスの再発見から知の革命へ』小沢千重子訳(紀伊国屋書店)☆☆☆☆☆

1000年近くも西ヨーロッパから姿を消していたアリストテレスの著作を、アラビア語翻訳を通して出会ってしまった「キリスト教化されたヨーロッパ」が再び出逢う。このときに生じるキリスト教神学と(先を行っていた)古代ギリシアの哲学との間の緊張。

長いイスラム教支配から脱したばかりの12世紀のスペインに於いて発見された、古代の著作との西欧人たちの出会いを、ルーベンスタインはアーサー・クラーク=S・キューブリックの『2001年宇宙の旅』における、20世紀末の科学者たちの巨大黒石板(モノリス)との出会いの衝撃のようなものだったという比喩を用いて説明する。この喩えの的確さは、あたかも月面下に埋められていたモノリスが、然るべき時(人類のような存在の出現)が来たら、然るべき知的存在によって発見されることを意図して用意された、知的生命体による「便宜」であったかのごとく、然るべき成熟を果たそうとしていた西欧世界のさらなる知的暴走の起爆剤として働く点で、注目すべきである。

あまりの面白さに2度立て続けに読んでしまった。

われわれは、ピエール・アベラールの名前とその破天荒な行状を知り、その敵対者(クレルヴォーの)ベルナールとの闘争の話を聞いた。また修道士アンリの大胆な行動や、そもそも異端的で教会の腐敗に批判的であった、伝説も多い、かのアッシジの聖フランチェスコが、後にカトリックの中枢に人材を送り込み、多大な影響を与えることになるフランチェスコ会の「宗祖」そのひとであったという事実に驚き、そしてロジャー・ベーコンやトマス・アクィナスの名前に親しみ、オッカムの吐いたと言われる(あの)金言を牽き、マイスター・エックハルトの死を賭した弁明に心を動かされる。

だが、これらの出来事はすべて、「コペルニクスの著作がローマ・カトリック教会の禁書目録に載せられ、ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられ、ガリレイが異端審問官に迫害され」る時代の前に起きたこと(つまり、ほとんどが13-14世紀の出来事)であり、そしてそれはとりもなおさず、キリスト教の神学に関わるきわめて「狭い世間」の話でもあった。それにしても、ヨーロッパの中世を「暗黒の中世」と評することの、何と一面的で紋切り型な認識だろう。いわゆる《ルネサンス》やその後の産業革命などを引き起こす以前の西ヨーロッパとは、すでに水面下ではそう言った一切の準備を、激しく知的操作を行ないながら準備していたのだ。

もう一つ忘れてはならないのは、結局、われわれの知るヨーロッパ中世の知的巨人と目される著名人たちは、ほぼすべて真性のキリスト教徒であって(異端と名指しされたとしても)、もっと正確に言えば、キリスト教会の紛うこと無きインサイダーであって、つまりは神学者だった。彼らの知的好奇心は極めて高かったので、手に入れた古代ギリシアの哲学を無視することは出来ない。結果的に、彼らは自分たちのキリスト教的世界観と、1000年近い時間を経て再発見された知的財産の間の、見かけ上の差異や矛盾にどう対峙し、如何にしてそれを「解決」し、つじつまを合わせるのか、ということを真剣に考え、論じるようになる。そこでは「神学論争史」とも呼ぶべき、膨大な精神的闘争の連鎖が欧州で起こる。

カタリ派なるキリスト教異端派が、南仏辺りで勢力を増した時期に、ドミニコ会などが力を付けたのも、改革への反動であったのみならず、知識や弁論によってイデオロギー上の論争を勝ち伸びなければならなかったカトリック側の生き残りを賭けた真剣勝負の一端だった。こうした文脈の中で、カタリ派を外から捉えた視点でものを観てみるのも興味深い(そもそもカタリ派へのシンパである自分は、カタリ派を迫害する側のカトリックの理屈というものに後からアクセスしたのであった)。

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