加速する回転遊戯器を止めよ!

〜カリユガを生きる自分たちに捧ぐ〜

文明の利器が「人の仕事を奪う」のは当然のことである。仕事を奪うと言うのが不正確だというのであれば、その目的は「人の仕事を減らして労働需要の絶対的総量を少なくする」のがそれである、と言い換えてもいいだろう。しかし、現実に起きていることとして、あるいはこれまでの実績ベースで歴史的経緯を見るにつけ、《技術革新はほとんど人類の労働時間を減らしていない》。何故ならば、この技術文明においては、減ったはずの労働時間(稼いだはずの時間)を、別の仕事に当てるのが当然とこの世界では思われているからである。

こうした事象の背景として、「労働賃金が労働時間を基準に支払われる」という制度が、相も変わらず産業革命以前の頃と同様に、多かれ少なかれ当然のように信じられ採用されているというのがあるように思われる。そうである以上、文明の利器によって生産手段が高度に洗練され、如何に生産プロセスが加速されたとしても、《余った時間に労働者は別の仕事をしなければならない》わけで、結局労働時間短縮にはならない。これが第一の問題なのである。


加えて、生産性の増大(売り上げの増大)という儲ける側/投資する側の論理からすれば、技術に対する投資を被雇用者の労働時間短縮には向かわせずに、単位時間辺りの生産性の増大に寄与する形でしか文明の利器を利用しない。つまり自分たちの儲けの増大にしか興味がない。そもそも人々の労働時間短縮など投資家の関心ごとではなかったのであろう。今もそうだし、歴史的にも。

労働時間を短縮を人々が望むなら、それは賃金の削減とセットでしか考えてもらえないのだ。つまり労働に対する対価という形で支払われる賃金は、つねに雇う側の「単位時間当りの労賃」という考えとセットなのである。どんな文明の利器を使っての労働なのかということと、賃金決定の間には何の因果関係もないとされてきた。

したがって文明の利器(技術革新)は、人々を仕合せにしない。(だが、技術革新が人類を幸せにしないという、その罪科(無責任)を以て、それを責めるのが本稿の目的ではない。)

ところで、技術革新は、それの開発や利用のためのスキルなどを要し、またそれの運用に必要な労働を要請するから、「技術革新によって失われた職業は、別の新しい職業によって(置き換えられ、あるいは)補われる(はずだ)」という希望的な観測もあったが、現今の世界の状況を眺めてみるに、それはまったく不正確な見通しでしかなかったとしか思えない。また、現実には技術革新によって失われて行く職業(労働需要)の方が、新たに作られる労働需要より大きく、結果として人類に与えられた労働機会は減っているというのが実感だ。

特に、コンビニエンスストアのレジを無人化するための技術が紹介され、一部のストアで実際に使われる予定である、などという最新のニュースを聞くに、その認識は間違っていないのではないかと思われるのである。

つまり資本家/雇用者が技術革新に対して、「コストの削減」「生産性の向上」にのみ期待を抱いている限り、失業者の増大には歯止めがかからない。つまりビジネスをより安く実行し、被雇用者の数も減らし、したがって職を求める人がストリートに溢れたとしても、彼ら資本家の当面の目標は達成されたという判断を採用しているのである。

彼らは、こうした失職する人々の数が増えることが、天に唾するが如く、自分たちの顧客そのものの数も同時に減らし、めぐりめぐって自分たちのビジネスを遅かれ早かれ難しくする、という巨視的なメカニズムの存在に対しては、実に盲目的である。

現代における人類の行いは、差し詰め、ハツカネズミのループ状の運動器具の中に集団で入ったが如き人類が、それをより速く回すことによって早く家に帰れると信じ、全員で歩調を早め、機械の回転数を上げ、その結果、機械の速度はまさに期待通りに早くなったのだが、回し続ける時間(総労働時間)は同じで、投資家の目論見通り、結局機械の速度を増大させただけだった。だが、かつての時代と異なるのは、総労働時間は同じなのに(1日の時間は平等に24時間与えられているのに)、仕事の速度は機械の速度の増大と共に上がっており、それに併せて「速く回す」(速く働く)ことが当たり前になっている状態に気付きもしないことだ。したがって運動機械の中にいる人類は、昔の人類と同じ時間働くが、速く走り続けなければならない点で、昔の人々よりもしんどい労働を強いられていると言えるのだ。

その速度で走り続けられない人は、その機械からはじき飛ばされるか離脱しなければならず、またそうなると文明の利器から得られるはずの恩恵に与ることができない。あるいはその速度で狂走する機器に一度乗り遅れた人は、もはやその恩恵を受けることができず、別の生き方を模索しなければならない。それどころか、生きることさえもおぼつかなくなる。

技術文明のその「人生の方法」について疑義を抱く者は、文明というグローバルビレッジから村八分にされるのである。

だが、そもそも何故人類が利便(技術革新)を追い求めたのかという根本的な動機に立ち戻ってみれば、その目的は《労働に従事しない(でも食べて行ける)社会層》を造り出すことであって、(にわかには信じ難いかもしれないが)それこそが文明の究極目的であったと言い換えることもできるのである。この「楽をしよう」という動機が、文明の利器に期待して開発に狂奔した理由である。そうであるならば、「無職の人が出てくる」というのは、ある面では「技術文明の目的の成就である」とも断じ得るのである。

問題は、そうした無職の人が「働かざるもの喰うべからず」の旧態依然とした近世以来の倫理で以て、不遇の内にいるのが当然だと言わんばかりの考えが依然として転換されていないということ、でもある。転換されるという段階でないばかりか、文明の利器の登場、技術革新の目指したもの自体に対する理解がそもそも共有されていない。その原点まで立ち戻って、文明を検証する視点が欠如している。まさに盲目的な技術文明に対する奉仕の真っ只中にいるのである。

労働を讃える倫理というものは、共産主義や社会主義のイデオロギーの独壇場ではない。さかのぼれば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」に行き着く、労働観に基づく。すなわち「禁欲的労働(世俗内禁欲)に励むことによって社会に貢献し、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができる」という《強迫観念》のことであって、例えば労働し続けなければ死んでしまうアメリカ「新大陸」の開拓時代には、それが功を奏し、巨大な帝国を育てるのに役立ったのかもしれないが、われわれの労働観がその影響をいまだ濃厚に被っていることには比較的無自覚である。

《新しい世界の状況における旧弊な倫理》というのは、実は資本家や雇用者の立場だけが求めるものなのではなく、この社会を支えるあらゆる「普通の人々の倫理」でもある。つまりそれほど根深い近世以来の意識なのである。そして労働の倫理という陥穽に嵌っているプロテスタント的な「正義の人々」──あらゆる現代人──というのは、これほどの生産の加速を可能にしている技術によってしても、その倫理の転換がなされない限り、救い出すことができないのである。

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