アラン・コルノー監督の死を悼む

Alain CorneauTous les matins du monde DVD

コルノーに関する自分にとってのall & everythingは、《Tous les matins du monde》(邦題『めぐり逢う朝』)の1作に尽きる。これは同監督についての、到底公平とは言い難い論評に過ぎないかもしれない。だが、それほどにこの1作《めぐり逢う朝》については語るべきことが多い。特に、自分の生き方、行くべき方向、何を信じるべきか、などなどの、表現や創作に関心のある人間なら、一度は真摯に考えたことのあるはずの、普遍的とも呼ぶべきテーマについて正面切ってとり上げた(そして筆者にとってはまさにそうした人生における一里塚的な作品だった)映画なのである。それは単に「よくできた作品」などと呼ぶよりは、ほとんど奇跡的な仕上がりとも呼ぶに値する、極わずかな作品のひとつだ。

芸術、分けても《すぐれた音楽》を題材とする映画作品の中で、コルノーの代表作《Tous les matins du monde》が群を抜いているとわれわれが感じるのは、その映画作品全体が、共感と共鳴に満ちているからだ。われわれが映画自体に共感するということは言わずもがな、なのだが、映画作品そのものからにじみ出てくる、製作に絡んだ人間たち相互に発生した共感について言っているのである。

『音楽のレッスン』を書いたシナリオ作家であるパスカル・キニャールの、(パレ・ロワイヤルに関わった人々のような)歴史的人物への共感。コルノー監督自身のキニャールのシナリオに対する深い理解と共鳴。作中人物(サント・コロンブなど)への全身で表現される俳優たちの経験した共感。そして何よりも、実在する音楽への演奏家(音楽監督)たちの共感。そして演奏された音楽へのわれわれの共感。それらが緊密に結びついて、映画全体を堅固な要塞のような完璧な作品に仕立て上げている。

それにしても、(繰り返すようだが)その結びつきの最も重要な要素は、何を差し置いても《音楽》自体である。これは抽象的な意味での「音楽」が主人公なのだと言いたいのではなく、マレン・マレやサント・コロンブといった実在の作曲家と、それを実際に音として再現する演奏家の紡ぎ出す「おとづれ」が、映画を鑑賞しているわれわれの元にやってきて、その音楽の「人生」を生きるという体験について言っているのである。

まさにこれらの具体的な音楽が、1992年というその時代において本格的に生き返り、今を生きる人間たちの血になる(栄養になる)ということが、映画という媒体を通して起こったのだということが重要だ。それは、また音楽のみの蘇りにとどまらない。17世紀に実際に起きた人間の精神活動が、音楽の復活とともに同時に再生され、われわれの生きる指針として機能し始めるということなのである。

こうしたすべてを可能にし、筆者の人生を何倍にも豊かなものにしてくれた、アラン・コルノーは死んだ。ひとつの作品を終えた直後の話だという。あたかもトリコロール三部作を残して間もなく急逝したキェシロフスキのように。映画製作というものが、かくも命を削って行うものだということが、このふたりの死に様からも伺える。自分の生命を賭けて行われる創作というものが、この世にあるということが、この少ない事例からも想像できる。心から、彼の創造を讃え、その死を悼む。

Tags: , ,

Leave a Reply

You must be logged in to post a comment.