任侠か、仁侠か

実は、いろいろな媒体でも「にんきょう」のことが現れてきているような気がするのであるが、そのスペルに「任侠」というのがあるのに気が付いた。それで、ちょっと慌てた。自分の「仁侠キネマログ」というのがミスペルなのかと早合点したからだ。それで、某検索エンジンで調べた。

【検索結果】

任侠(24100件)

仁侠(6430件)

数の上では「任侠」が「仁侠」の4倍もある。さて、どちらが「正しい」のか? と思って、職場の事典(広辞苑*)で調べたら、両方とも存在する。意味は「弱きをたすけ強きをくじく気性に富むこと。また、その人。おとこだて」とある。仁侠を「おとこだて」とするのは、こうした気性が男の特質(あるいは男の持つべき徳)だと決めつけている感じで抵抗があるが、「弱きをたすけ強きをくじく」というのは、「仁侠/任侠」の定義としてなかなかいい。

(* 広辞苑を権威として信頼しているということではなくて、職場には広辞苑しかなかったから。)

「任」の意味は想像できる。「まかせられた職分・役割」と言ったところだろう。しかし、「仁」の意味は?と訊かれたら...


即答は難しい。「仁」というのは、僕たちの日常的ではもはや聞かれなくなった言葉だが、一番分かりやすいところでは、「いつくしみ、思いやり」のことらしい[同じく広辞苑による]。礼に基づく自己抑制と他者への思いやり。これって、ダライ・ラマの説いている「compassion」にも近い概念ではないか。

「仁」にはいろいろな解釈があった。日本の封建社会では「上下の秩序を支える人間の自然的本性」とみなされたそうだが、中国では万人の平等を実現する相互的な倫理と見なされる、とある。なるほど。「万人の平等を実現する相互的な倫理」と言えば、それは正に「たすけあい」「慈しみあい」といった相互扶助の根本精神のことだ。つまり、「仁」の目指す理想とは「平等・博愛」なのである。「自由・平等・博愛」の「自由」が抜けた二本線が「仁」であったのだ。

と、ここまで来れば、ネット上はマイノリティであるが、「にんきょう」に相応しい漢字は、やはり「仁侠」でなけりゃ、と思うのである。それがだんだん「任侠」になってくるところが、僕たちにはソラ怖く感じられるのである。(私には区別されるべき「三本線が刺し連ねられている」ように見えるのである。)

仁侠の世界では、助け合いの精神(掟)に反するのであれば、立場の上下に関わりなく、そこにケジメが発生する。実はそこには「上下の秩序維持」を至上のものとする、封建的様相がない。むしろ、集団の倫理と、集団内個々の自立した倫理(掟)への関わりがあり、それが物語の中心となる。「礼節」はキーであるし、大いに映画でも描かれる所であるが、仁侠の世界では、封建社会で重んじられた「礼」といったものとも違うような気がする。

相互扶助の精神に対し、集団の維持が優先され始めると、相互扶助の経済活動は単なる「ビジネス」と化す。すると、「ビジネスパースン」達は、経済分野での自由競争を保障する新法などが金科玉条のものであると考え始める。法にさえ適っていれば何でも好しというヤツである。戦後の新自由主義の「マーケット買い漁り」は、典型的仁侠映画の中では、「お上」とも内通してまでも既得権を拡張する、単なる個人的権益の追求を優先する「新手のビジネスパースン」、すなわち「悪徳商人」でしかないことになる。一方、旧弊だが愛すべき勢力として描かれる「守備する側」は、組の在り方が相互扶助の精神に反するのであれば、「組そのものを解散する」ということさえあり得る。このようなことが、仁侠映画では描かれることがある(「昭和残侠伝」)。

そう。「昭和残侠伝」第1話 (1965)では、自ら、その存在価値を相対化し、「オレたちみたいなのがいるから、争いが絶えねえんだよ」と、(高倉健演じる寺島が)組を解散するのが描かれる。これは驚きの展開である。人間の組織というのは、未達成の目的に向かうときには効率的で、しかも生産的でさえあり得るが、それをいったん果たすと、組織が無条件な自己保存へと舵を切り始めることがある。あらゆる「人間の組織」には、そうした腐敗への潜在性を孕んでいるわけだが、この映画では、<自己解体>するという驚くべき過程が描かれる。官僚の天下り先になっているような、あらゆる特殊法人とか財団法人とかの勤め人に、見て欲しい映画なのだ(見ないだろうけど)。

メモ:「恕:じょ」というのも「思いやり」のことらしい。字面からは「怒っている」感じしかしないんだけどね。

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