審美眼ならぬ《審意眼》を育むべきわれわれの時代

6月28日にアップしたカンディンスキーに関するエッセイについてのツイートを備忘録として転載。

自分の書くもののポイントはいつも同じ。音楽は特権的に(例外的に)「意味の表現」という義務から逃れている。だが他の創作物(特に美術や映像)は、意味の呪縛から逃れられない(し、逃れる必要がない)。

そもそも無意味に人を付き合わせるなよ、っていう正論があって欲しい。壁紙の柄に意味を求めないような意味で、「美術や映像に意味を求めるな」と言うのであれば、そのような「創作品」に、われわれ意味の世界を追求している者たちが付き合う気はないし、皆もそんな物の鑑賞は時間の無駄と知るべきだろう。

だが、壁紙にも実は意味の残滓はあり、それでさえも、意味の呪縛から逃れ得ぬ。そして逃れようとする必要さえないという問題圏も別に存在することは認めてもいい。

一方、壁のシミのようなものである限り、人が「意図して」作る必要もない。そんなものは自然と偶然の営為に任せれば良い。それは壁自身に、朽ちて行く人口構造物に、あらゆる変化して行く無常の世界と時間の営為に任せれば良い。見渡せばいくらでも落ちている、自然界に、そして廃墟の中に。美を見出しうる要素だけなら。

カンディンスキーのような卓越した表現者への対峙法として、ゆるされるのはただひとつ。「意味、意味、意味」である。美を美として感情的に享受する嗜好品であるであるようなものを作るのに、どうしてあれだけの思惟が必要であろうか?(つまり、彼の作品は美の探求とも嗜好品の制作とも関係がない。)

そうした真摯なる芸術家の営為としての作品に対しては、明確に一定のテーマを持った中世の宗教画に対峙するのと同じ態度で臨むべきだし、そういう態度で臨む必要のないものに、そもそも価値などはない。カンディンスキーも、時代の影響を免れ得なかった点で、一度は「無意味への傾斜」があったが、幸運なことにそれは一過性の「病」だった。彼はすぐにその病から立ち直った。彼が幾何学的な表現を見出すまでの長い過程は、その抽象への病と解することができる。

創造的作品のそれぞれにはそれぞれの得意とする役割がある。非対象性などという「手法」は、音楽に任せておけば良い。われわれの世界には「抽象画」などというものがあるらしいが、音楽がその本質的な意味でそうであるようには、抽象であり得ない。対象を持つのが、絵画であり、映像なのだ。

したがって映像の詩人などと讃えられたタルコフスキーも抽象の映像作家ではない。つねに具体的な対象を持ち、すべてのカット、セリフ、音楽、あらゆるものが意図通りであり、一定の意味を持たされている。どう受け取られても良い、などという表現者としての動機を放棄するようなことは一切ない。

われわれは意味を込めた作品をそうでない嗜好品から区別する審美眼ならぬ審意眼を持たなければならない。

6月29日

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