「人類の進歩と調和」そして「進化」の乱用を巡る短いメモ

Twitterのつぶやきに書ききれなかった若干の内容を補足して転載。

高校生のとき、同級の悪友が「人類の進歩と調和」について小論文を書け、と言ってきて、それについて真剣に考えて以来、この言葉については敏感だ(その論題を出した彼は、「進歩と調和は相互否定的な概念であり、欺瞞的なスローガンだ」という当方の回答に非常に満足していた)。

なぜ科学や技術の進歩に「進化」などという生物学用語を和文ライターたちは当てるのだろう。進化できるのは人間以外の生物だけだというのに。そしていつ頃からこの語彙の乱用が始まったのか? もうこの乱用に付き合うのに飽き飽きし始めている。

「人類の進歩と調和」なんていうのはアンビシャス、というよりは何と欲深い願いかと思うが、それでも大阪万博当時の日本人は「(技術の)進化と調和」などとは言わない分別は持っていた。(しかし考えてみると「人類の進歩」という表現も変だ。進歩できるのは科学・技術だけだろう、そもそも。)

人類は、《進化》などという気の長い持久戦を早々に諦めて、外的な条件である環境改変の方に着手してしまった。環境への適応とサバイバルが進化の本質で、自らの変化のことだが、人類は「進化」ではなく、道具である技術を「進歩」させる方を選んだ時点で進化と縁を切った。

実際、考えが一巡してみると、70年代にわれわれはすでに「人類の進化と調和」と高らかに宣べ伝えるべきだったのかもしれない。生物学的進化は緩慢であり、また、周囲との調和無しには実現できないから。少なくとも人類は12,000年間は進化など全くしていない。道具を発達させたために生命的には「退化」した。(実に短期的な出来事だが。)

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