音楽の《雑味》という要素について

リードを削っていて陥りがちなひとつのトラップ(罠)は、吹きやすさ、鳴らしやすさを追求する余り、音がまるでサインウェーブ(正弦波)のような純粋さを達成してしまうことだ。こうなると、極端な話、オーボエなのかクラリネットなのか、はたまたサックスなのか区別がつかない様な没個性的な単なる響きに堕ちてしまう。ある楽器が特定の個性を持った音色を持つのは、そぎ落とされずに保たれた、言わば雑味の部分だ。それはリードで喩えるなら鳴らすまいとする抵抗性の要素だ。

 

これを残すことはある程度の吹きにくさ、鳴らしにくさと云う扱いにくさを許容することでもある。まさにその遺された僅かな雑味の中にこそ、楽器としての存在価値がある。

 

一体、ヴィオールのあのかすれた響きに非ざるものを削ぎ落としてしまった後に、なにが残るというのだろう。

 

つまり、今日の音楽という特殊な「交響」の中にあって、響かざる何かを追求すること以上に価値のあることはないのだ。そのかすれた囁きにこそ、音楽の生命(いのち)の宿ることを知る人々がいる限りは。

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