“親方日の丸”の手足がもがれる日

「国が真に民主主義的だったことなど一度もない。そして暴力団は日本が日本という国家たるために必要なガバメントの手足だった」などと、まともに私の父の世代のいる前で口走れば、何と言われるだろう。

日本の場合、「政府」がもちろん必要ではあったが、政府が民主的に世の中を収めきるというような事は「体力・知力・時の運」が一度と許さなかったのだ。しかし(誰かが)日本を日本として独立した国家たらしめなければならなかった以上、(その誰かが)国家にとって大事な決定を現実のものにするためには暴力に訴えねばならなかった。(まあ、日本に限らず、国家ってやつは暴力組織だからね。)おそらく日本が日本という一国家として認められた時点で、日本の政治は全て陰謀と世論コントロールによって行われることとなったのだ。

日本の場合、国家的な決定を「実行」へ持っていくのにヤクザが使われた。ヤクザは恐い。彼らは人を殺したり脅迫したりすることを何とも思っていない。力でもって人をおびやかし、恐怖をもって人を動かすのは取りあえず暴力団の仕事だったからだ。新宿に新都庁が建てられたのもヤクザの暗躍なしにはあり得なかっただろう。もちろん東京都とヤクザが見て判るような直接つながりを持っていたわけでもないだろう。(全部憶測だが。)見る人が見ればそれは明らかだったのだろうが、そのようなことは映画やテレビドラマにはなってもニュースや新聞には出てこない。新都庁を建てるのにどれだけの人が泣いて、死んでいったのかと言うようなことは、公的に語られるようなことではなかったからだ。

成田空港建設であのように政府によるコントロールが効かなかったのは、初めからヤクザに頼るというエッセンシャルな選択を、当時政府が執らなかったからかもしれない(あるいは執れなくても執れない事情があったのかもしれない)。そのかわり、農民の側に左翼という反対運動をやる別のヤクザが付いた。政府に言わせればこうした左翼運動家こそが国の将来を危ぶむ「暴力団」に他ならないのだろうが。

時間は過ぎていく。(Life goes on.)政府が国家を中心に据えた政治や行政を現実のものにするためには、どのみち暴力に訴えるしかない。日本の場合はヤクザが伝統的にその道を任されていた。おそらく、歴史を振り返ればそうした組織暴力団と国家とのギブ・アンド・テイクの関係は江戸時代ぐらいまで遡れるのだろう。いずれにせよ双方の生き残りのためには互いが互いを必要としていたに相違ない。

国家が国家らしく「国体」を満喫するためには、暴力が必要だったことは明らかだが、アメリカ合州国のようなケースはどうなのだろう。アメリカにも組織暴力団はいた。しかし、それがあまりにも力を持って国家の方針を脅かすようになった時点で、それは徹底的に排除された。今でも州や都市のレベルではマフィアと政治が結びついている部分があるのだろうが、少なくとも連邦政府はそれを「悪しきこと」と歴史のある時点で判断したのだ(おそらく、30年代の禁酒法時代の頃だろうが)。合州国は国をコントロールする方法として、国内のヤクザと「ツーカー」の関係になるよりは連邦政府自体がヤクザになる(ヤクザ組織を持つ)事を選んだ!のだ。

CIAやペンタゴンがそれであろう。CIAは必要とあれば、国家が「計画的将来像」からの逸脱を招くような政治家を政府内に見つければ、殺すことが出来る(ほんとか?)。直接殺すのはプロの殺し屋かもしれないが、殺してもよい、あるいは殺した方がよい、と最終的に意思決定することが政府の情報収集機関であるCIAには出来る。一方、ペンタゴンがヤクザであるという言い方には語弊があるかもしれないが、軍隊が国家的(また国家が保障する)暴力組織であり、自らの生き残りを考えるのが必然である以上、当然、時の政府とさえ諍いを起こすし、都合の悪い人間は殺すなり、スキャンダルを捏造するなりして社会的に抹殺することは出来る。しかもおそらく「合法的に」。しかし、いかなる暴力自体、国が『近代国家』としてサバイブするために必要な力として広く認められている(もちろん善良なる市民はそのようなおぞましい存在は映画の中だけのこと、と信じていればよい)。

さて、それでは日本からヤクザがいなくなるということは、一体何を意味するのだろう。それはある巨人が歩いたり、叩いたり、獣を捕ったりする手足をもがれることと同じ事である。アメリカから国防総省(ペンタゴン)やCIAを奪ったらアメリカがアメリカとして存続できるだろうか。出来ないことは誰でも知っている。日本でもそれは同じ事である。ヤクザが日本の秩序の一部を力で保持していた以上、日本から彼らがいなくなることは、日本が丸腰になるということを意味する。ヤクザこそが、日本の閉じた箱庭のような空間を平和に収める役割を担ってきたのにだ。

ここ数年聞く暴力団に対する封じ込め作戦は、当然日本からそうした規制緩和を取り除こうと画策している「外国」の圧力によって起こされているものに違いない。建設業界の談合事件や収賄事件などがここ数年大きく取り上げられているのも、外国の建設会社参入を望んでいるどこぞの国の圧力によるはずである。(ああした談合・贈収賄は、日本国内でもう数百年続いているのに、ここへ来て突然ダメだというのだ。)

国家ばかりか、純粋に民間のレベルでもそうした暴力組織を必要としていた。いや、常にこうした暴力は政府が直接と言うよりは、民間の企業が仲立ちになって利用されていたのだ。しかし、このたび長いこと必要だった暴力団が、国を挙げての「おまえはもう要らない」と言った三行半を突きつけられたのだ。もちろん、生き残る必要がある彼らは怒る。

「非合法活動」が専門で、わけても元々「暴力」が彼らの得意とする仕事であったわけだから、彼らにとって暴力をもって生き残りのために闘うことなど、何の造作もない。自分で暴力を使うのが恐かった卑怯な連中が、そうした暴力組織を利用していたわけだから、ヤクザが暴れ出したときの本当の恐さをまだよく知らないのかもしれない。しかし、今日NHKで取り上げていた「住友の重役殺害」の真相がその部分にある、と言うのが本当であれば、こうしたヤクザによる財閥への復讐はさらに続くかもしれない。住友の次は三菱、三菱の次は三井と言うようにである。

しかし、そもそもテレビの報道を信じられない私は、住友グループだけが、何か絶対公に出来ない失敗をしているというのも考えられることだ。そして、報道はその真相を隠すための「納得のいく説明」に他ならないとも思えてしまうのだ。つまり、「今回の“住友の件”に関しては、『暴力団との怨恨が原因だった』と言うことにしましょう。そうした面が決してなかったわけではないし、国民も『住友はそんな企業だったのか』と、取りあえず納得するでしょう」と日本のマスコミ全てが「申し合わせた」のかもしれないのだ。今回の殺人事件に関して言えば、全体の汚点を住友だけに集約する事で日本全体の腐敗を隠すことが出来るかもしれない、と言う計算も働いているに相違ないのだ。

(このように私は日本のマスメディアの発表に関しては全く疑心を持ってしか見ることが出来ない。)

いずれにせよ、この暴力団一掃のキャンペーンは、早晩成功し、日本の経済的障壁の門番であったヤクザがいなくなることで、日本の政府は存在しながら全くいないのと同然となる(今日の日本政府の『無政府状態』を考えて欲しい)。そうなった後、規制のなくなった日本へ本当の強さを持った(それこそヤクザのような)米企業がドシドシと奥座敷まで上がってきて、日本の企業を脅かし日本の市場を奪い去っていくことだろう。

しかし、それは日本がここ数年の間に選択した道である。日本が暴力団によって守られた閉鎖的社会から、「国際的」競争の世界へ踏み出すことは、すでに「どこか」で決定されたことなはずだからである。まあ、それもネクタイを付けてスーツを着て、アンクル・サムをバックに付けた別の名を持つヤクザに脅されたから、と言えば納得のいくところであるが。

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