契約という名の下の不平等

たとえば、国連に圧力をかけてある国に軍隊を派遣したり、場合によってはやめさせたり、あるいはIMFとのある合意を当事国に遵守するよう強制したり、等々という役回りとして、頻繁に米国という姿がそこここに見出される。まるで、米国が国連や世界銀行を代表しているかのような(あるいはまさにそういうことなのかもしれないが、事実、両方ともその本部がアメリカ国内にあるし)態度であらゆる局面で立ち回っているのが目立つ。

国連決議に則った国連軍の第三国への派遣せよとか、IMFとの合意遵守せよとかいうのは、すべて「公の場」で決められた約束(契約)であるから必ず履行されなければならない、という一貫した論理のもとに言われていることである。契約が絶対であるという論理は、とりわけ宗教的絶対制が解体したあとの西洋社会において、集団生活の成立の要(かなめ)となった(と思う)。また、ルソーが提唱した社会契約という思想の出現以降、おそらくはそれ以上に理想的な社会基盤は、まだ世に紹介されていないようである。(もちろん、これはルソーの理論自体を疑おうとかいう意図をもって書いているのではなく、かれの理想が曲解されているばかりでなく、むしろ「悪用」されているのではないかとさえ思われるということが言いたいのだ。)

「公の場で決められた約束」というものが、ある特定の国家の利益を代表しているのではないか、あるいは、それがある特定の強大な権力をもった大国の圧力によって取り交わされたのではないか、ということを再検討することは肝要である。もちろん、結果として、われわれは常に、国際的な「公の場」で、そうした特定の大国のあからさまな(あるいは秘密裏の)圧力を目撃するのである。現今の条約や国連決議といったものが、こうした「契約」という形を取った別名のパワーポリティクスであるという捉え方をわれわれは考慮すべきなのだ。また、「公の場」という風に括弧付きで書かざるを得ないのは、それがいわばあくまでも表向きの「公の場」でしかないということがあるからである。

所詮は、かのパスカルがその著『パンセ』の中で語ったように、「公正なものが強い力を持つようにすることができなかったので、力の強いものが正義であるとすることにした」のであり、力のあるものが強いた(不正であるかもしれない)“契約”を相手に遵守させることが公正である、ということになった。それだけのことである。

たとえば、植民地化され後に独立したとか、あるいは植民地化を何とか喰い止めたとかのアジアの諸国は、つねに外からの勢力(外圧)としての欧米列強と不平等条約をそう(不平等)と知りつつ結ばざるを得なかった。時として、銃砲を突きつけて開国を迫り、決定を渋れば空砲をならして脅かすという手段を選ばぬ方法に訴えて通商条約の締結を迫ってきた。これは米国にとっては常套手段であった。その「法的に効力を持つ」と言われるその条約(契約)をどう撤回する(させる)かを巡る争いが、当事国の内であるいはその条約相手国との間で起こった。政争であり戦争である。不平等(悪)でも約束は約束であり、約束を守ることが絶対善である、という観点からは、弱者はそれに従うことが無条件的に正しいということになる。だが一方、従うだけでは不平等が一向改善されない、という観点からは、それが悪であると判断せざるを得ない。つまり、このような観点からは、契約の破棄/不履行は「違法」ではあるが、善なる行為であるとさえ言いうる。それが防衛する側の論理だ。

我々は、常に真の暴力というものが、巧妙なまでに「法的な」手続きを経て行使され、法的な支持を得たその国家が、しかも最大の規模の破壊をもたらす挙に出ると言うことを忘れてはならない。

(revised in February 2, 2000)

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