東野さんとの再会/ギリヤーク尼ヶ崎さんのパフォーマンス

土曜から、日曜に掛けての長いお話。現在東京でベンガル式巻物紙芝居“ポトゥ”の原画展をやっている語り部“ポトゥア”の東野健一さんの最新作品を見るのと、昨年のコラボレーション・パフォーマンス以来1年以上ぶりの再会を果たすために新中野へ赴いた。場所は無寸草という知る人ぞ知ると言われる「画廊」である(この場所についてもいろいろ書けることはあるのだ)。昨年のコラボレーションで共演をお願いした盟友・黒井絹さんにあらかじめこの「イベント」のことを告げてあったので、現地で落ち合うことにもなっていた。

イベントというのは、今回の「原画展」開催中、この土日の2日間やることになっていた東野さんの企画のこと。自分の行った土曜日は、噂に名高い「大道芸人」ギリヤーク尼ヶ崎さんの「映画とお話」、というものだ。私は昨年のパフォーマンス録音の音源をコピーして手渡ししたいという希望を直前になって無理矢理実現しようとしたために、予定より遅れて現地に着いた。そのため、ギリヤークさんの映画はすでに始まって20分ほど経っていたようだ。

到着して初めて来た無寸草の雑然とした土間を通って暗い階段を登りきったが、闇で現場の様子が右も左も分からない。どうやら思ったよりこじんまりしたスペースであり、一角に小さなスクリーンを設置して件の映画を映写している。しばらく映画を観ていて目が暗闇になれてくると、その場所の突出したユニークさと、まるでそこにずっと飾ってあったかのような原画展作品の演出の両方に驚く。しかし、すでに最初を見逃している映画を観ることに神経を集中することにした。ギリヤークさんの踊りの素晴らしさは、連れ合いと熱烈な東野さんの話で聞き及んでいたが、映画とは言え記録となっているその踊りを観ることで、ギリヤークさんの生き方や一つの作品を追究する姿勢などに感動を覚えていた。やはり話でその内容を聞くのと観るのとでは大差がある。

良く時間を掛けて作られているギリヤークさんの『祈りの踊り』というドキュメンタリー映画が終わると、普段数百人の見物人相手にパフォーマンスをする彼自身が10人弱の鑑賞者に向けて自分の踊りと半生を振り返る話を始めた。「トーク」というのを勝手に対談のように思っていたので、東野さんが聞き役となってギリヤークさんとの会話が聞けるのかと思っていたが、実際は1時間くらいに及ぶギリヤークさんの語りの独壇場であった。それ自体が聞く者を引き寄せる魅力的なものだった…


ギリヤークさんが映画役者を目指してそれを果たせなかったこと、モダンダンスをやっていたが3年で「向いていない」のを実感したことや、役者になることに対する未練がしばらくは捨てきれなかったこと、38才にして初めて「青空公園」と題して自分の踊りを公共空間でゲリラ的に公開したときの時代(70年代の学生運動の全盛期)や、その時に見知らぬ人々の前で感じた恐怖心とそれを乗り越えた時の感慨など、そして自分を取り囲んで熱心に観てくれた当時の人々の目の輝き、などなどあらゆることが聞いていて話として面白く、ずっと聞いていたいような内容だった。

「上映会とトーク」と謳われていたため、誰もがギリヤークさんの実際の「芸」を観ることになると明確には思っていなかっただろう。しかし、彼はわれわれの言葉にしていない「期待」を裏切らず、「話だけでは何だろうと思う方もいるだろう、やはり自分の芸を披露する」と手短に言って、一旦われわれの前から姿を消した。ほどなくして映画に出てくるような姿そのままで、「舞台道具」を仕舞ったキャスターに載せられた質素な「道具入れ」を曳いて狭い舞台となる部屋の一角前に戻ってきた。すぐにその場で年季の入ったと思われる方法で着替え始め、「メイク」に取りかかる。斜め上方に一瞬一瞥を与え、すぐそこまで来ている「霊的な訪問者」から気を受け取るような仕草をする。この時点ですでに彼の芸は始まっている。真剣そのもの隙のないその姿からは、「何かが起こりつつある」という空気を周囲に発信している。この状態で彼を観たならば、誰もがそこで立ち止まるだろう。

時を刻んだ「青空公園」の看板を用意し、ギリヤークさんの母堂の映った大事な小さな遺影を恭しく取り出し、しかるべき場所に配置するその様、道具箱から出される化粧用パレット、草履、冠のような髪飾り、それ自体が時を刻んだ美術作品のような三味線を模した小道具の組立て、化粧の動作、そうしたあらゆる「もの」「こと」が、あたかも必要な儀式の欠かせない一部であるように、眼前に展開される。そして、緊張感が高まりいよいよ用意が出来たら、初めて短い口上(とは言っても作品名を高らかに歌い上げるだけだが)を述べ、拡声器に繋げられたカセットの音源のスイッチにためらいながら指を近づけていく。

いよいよ鳴り始めるその音源は、まったくそれだけでも心を揺すぶられるもの。人の声を思わせるじょんがら節の三味線。その彼自身が選曲して繋げられた音源をバックに、「じょんがら一代」と題するギリヤークさんの作品が始まる。圧倒的な踊りの15分。15分の真剣な準備と15分の中身だった。

それが終わった後は、数人が会場を後にしたが、自分はようやく東野さんと再会の挨拶をし、CDを手渡すなどをした。その後、連れ合い、黒井さん、そして、無寸草の経営者と東野さんの「音響担当?」のMさんという女性を含む数人で、東野さんとギリヤークさんを囲んでお茶を飲みながら楽しい歓談の時を過ごした。このときもギリヤークさんは「自分の踊りが祈りの踊りである」ことに気付いていったことなどを話されたように思う。もう少し、東野さんとも話をしたかったが、疲れたギリヤークさんを連れて、東野さんが早々に「風呂屋」に向かったので、それをきっかけに自分も黒井さんと一緒に無寸草を発った。

その後、夜勤明けで疲れているはずの黒井さんをそそのかして、新しい彼が入手したCDをみんなで鑑賞するを名目でうちに来て貰った。結局深夜過ぎ2時くらいまで起きていて音楽を聴いていたので、黒井さんは疲労困憊しただろう。連続30数時間の連続徹夜である。

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