音楽が教えてくれたもの

そいつの目は、本当に死んでいるのか?

ある人は、そいつを腐っていると呼んだ。私にとってはときに特別な人であるにも関わらず。

ある人は、そいつを嘘つきだと呼んだ。私にとってはときどきに真実の人であるにも関わらず。

ある人は、そいつを曲がっていると呼んだ。私にとってはいたって実直であるにも関わらず。

ある人は、そいつを純粋でないと呼んだ。私にとっては純粋であることなど意識したことさえなかったのにも関わらず。

ある人は、そいつをB型であると呼んで喜んでいる。

ある人は、自分を水瓶座であると呼んで喜んでいる。

ある人は、自分がある地域の出であることを誇って語っている。

ある人は、そいつがある地域出身であることを卑下して語っている。

ある人は、純粋なものが分かると断定し、また純粋こそを求めると自分のモットーを語っている。

これは、差別が当たり前だった何十年も前の話ではない。

戦前やましてや明治時代の話でもない。

いま、当たり前のように行われている区別と差別の意識である。

人の外見的な見た目や性別を、そして出生を、誕生日を、「へだたり」として、受け入れ、それを言語化することさえ厭わない現代人の姿勢である。

ある人がそのように、ある人物を評するのは、自分とそれ以外の者、あるいは自分の気に入っている人とそれ以外の者、を区別するためにそうした判定を下す。しかし、判定が絶対的であることは、ない。

(百歩譲って)そいつが腐っているとして、それを嫌うのは自分が清廉だからか?

それを好むのは自分がともに腐っているためか?

そうだおまえ自身も腐っているためだとある人は断ずるだろう。なぜかならば、その方が自分の生き道を定めるに容易だからだ。

(百歩譲って)彼自身は自分がそう言うように純粋であるかもしれない。その通りだ。彼は純粋な人だとある者は評するかもしれない。だが、それは、自分がその純粋を感知できないということを恐れるあまりに、進んでそれを分かると公言しているだけの話かもしれない。そもそも、ある人物があらゆる時間を通じて、あらゆる場所で、あらゆる状況で、「純粋である」などということがありうるのだろうか。

ある者を評する心というのは、あるがままをそのまま受け入れるというのとは異なる、ある種の「ゆがみ」「不純」「無知」を自分の中に育むことを意味する。まっすぐ見ていないと他人を評する彼自身が、自分の中の曲がった部分を見ることができない。ある嘘を以てひとを嘘つきと断定して済ませられるその心は、自分の中の嘘に気付くことをみずからに許さない。

そいつの目が腐っていると感じる自分の目は、それを腐っていると捉える自分自身の淀みに気づかない。あるいは腐敗を単に嫌うだけの潔癖性の現れだとは気がつかない。潔癖性とはそもそも自らの腐敗に対する恐れにほかならない。真の潔癖は腐敗さえ恐れない心だ。

ことによると彼は非常に腐っている自分を嫌悪している。嘘に敏感で、ある嘘を決定的な人の性質であると断定する人は、自分の中の嘘に気づいていて自他をだましているか、自分の中の嘘にも気がつかない鈍感者である。

そしてそうした一刀両断の芸術家まがいの断定的言辞を弄するものは、決して物事を個別に語ろうとしない。具体的に語ることを恐れる。根拠なき断定で人を驚かせ、その断定を基に自分や人を判断する。その害毒たるや「人を頷かせるに十分な権威」として発動するために広まりこそすれ、自ら沈静化することは滅多にない。

嘘があり、腐敗があり、曲がったものがある。あらゆる人に両面が潜んでいる。

可逆性を許さない断定、引き返せない判定、そして回復不可能な関係の破壊。裁きは自分にこそ最も強烈に下されるものでありながら、それにはなかなか気づかれることがない。

腐敗から芳香や味わいは生まれる。

あるいは、腐敗そのものが、味わいであることがある。

まがった幹から自然の力強さを感じ取ることができる。

ねじれた体に力が宿る。

そして一見した嘘の裏に見定めの付きがたい真実がある。

排除の中ではなくて、共存の中にこそわれわれの生きる道がある。

いったいわれわれの誰が、悪なくして善を語り得るのか。

いったいわれわれの誰が、死なくして生を語り得るのか。

いったい、悪なくして、どうして善悪を超えられようか?

いったい、死なくして、どうして生死を超えられようか?

そして、いかに私は、言葉に左右され、付和雷同し、容易に賛同したものだろうか。いよいよ自分の言葉をしゃべるために、簡単にまとめられた、一刀両断の分かりやすい、あらゆる断定に対して、その断定を行うものの中にこそ、「不純」や「曲がったもの」を見て取らなければならない。

それは、自分の近しくしている友人や、師と仰ぐような尊敬すべき人の心の中にも滑り込む。そして、そうした時折彼らの中でおこる曲がった心を通じて、自分自身の中にも曲がった考えが伝わってくる。だがそれは、自分の言葉なのか? 自分が真に自覚した言葉か?

友人を取り巻かせ、賛意を呼び起こすその言葉は、その返す刃で人を傷つける。そして、何よりも「人と人とを分つ」...

そんなことを久しぶりに考えさせてくれたのだ。言葉でなく、音楽が。

(中川龍也と黒井絹の善悪すべて併せ呑み込むような二重奏を聴きながら。)


それを聴衆の一人であった自分は音楽で返さずに、ここで言語化していると言うパラドックスが起きているのである。

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