ヨーゼフ・ロートを(また)語…ろうかな

最後にヨーゼフ・ロートについて書いてから早三ヶ月が過ぎた。

それにしてもなんと遅い歩みだろうか? これほどに書かないでいるということが自分で出来ようとは。いやそうではない。これほど書けないということが起ころうとは、という方が正確である。

しかしようやくロートの『果てしなき逃走』を読み始める。このところずっと持ち歩いていたが、「くだらないこと」に時間を費やしていて、ゆっくり本を読んだりものを考える時間がなかったのだ。岩波文庫として出たのが1993年であるから、まだそんなに古い本ではない。だが早くも絶版(品切れ)となっている。おそらくそんなに沢山刷られた訳ではないだろう。このような良書であっても、じつに本のライフサイクルが短くなっているのである。本書の存在を知ったが、結局入手できないと諦めかけていたら、Amazonのマーケットプレイスに出品されているのを知って、その古本を定価以上の値段 + 配達料で購入。(昨年の暮れ)

しかしだ。それだけの「贅沢」をして入手したが、まったく期待に背かれない内容。ロートの第一次と第二次世界大戦の狭間という時代での経験を綴ったいくつかのエッセイがあるが、それが今度は小説となって蘇ったという感じだ。小説を自分は普段からほとんど読まないが、本書に関していえば、小説を読むときに感じるような、なぜ人の書いた虚構を「追体験」しなければならないのか、というような懐疑の念がまったく生じない。それは『聖なる酔っぱらいの伝説』のときでも同様だった。おそらくそれが単なる虚構のたぐいではなく、ロート自身によって生きられた体験が色濃く残されているからに他ならない。あるいは、当時の2つの戦争と戦争の間におこった表面的な「平和の間隙」において、ロート自身が感じた本音が登場人物たちによって吐露されているからなのかもしれない。

ロートによる「ヨーロッパ」という場所における文化や人についての鋭い批判眼。それはわれわれが自分たちを「日本人」であるとか「アジア人」であるとかいう、自意識、あるいは批判的に西方世界へ眼差しを投げかけるときに自分らが使いがちな、「西洋」あるいは「西洋文明」というような一刀両断の「分かりやすい理解」を、あっという間に無化してしまうような歴史と地理の相対性理論をさりげなく提示する。

これについては腰を落ち着けて書きたい。

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