「あちら」の風(Zefiro)が吹いてきた或る「銀座の夜」

十六分音符は、襖(ふすま)一枚を隔てた「あちら」の側から聞こえてくるようなまろやかさで、転がり始める。それは、クラリネットの1番奏者のごく控えめだが明確に奏者同士の集中を束ねる視線を2本のバセットホルンに投げかけた直後に、あたかもひとつの風琴が作り出しているような1本の有機的な息の技として眼前に提示される。そして、その有名な「フィガロ」のテーマ、その十六分音符群が最初の12小節を終えて、全楽器がトゥッティに突入するとき、たしかに13の生楽器、しかし古楽器だけが作り出すことの出来る柔らかな爆裂音が王子ホールの会場を満たした。たった最初の13小節で、自分が今立ち会っている音楽の非日常性に、思わず体が反応して、音楽の喜びが笑いに変わってくる。それは、あまりに良すぎる音楽体験のときだけ起こる情動的な痙攣なのだ。

金曜日。イタリアの古楽アンサンブル集団、Ensemble Zefiroのコンサートに縁あって行くことに。Zelenkaのアルバムを出したときにそれを知ってもうかれこれ10年経っているので、彼らの音楽を知って早10年の月日が経っていることになる。が、まさか彼らの生演奏に触れる機会があるだろうとは想像だにしていなかった。コンサート情報を前々普段からチェックしていない自分だが、このような幸運に恵まれたのは兎にも角にも得難い友人のおかげである。

今回彼らの演奏した曲目はバロック時代の音楽ではなく、全曲モーツァルト・プログラム。メインは「13管のためのセレナーデ(Serenade Nr. 10)」、すなわち「グランパルティータ」で知られる管楽アンサンブル曲である。管楽アンサンブルそのものがあまりコンサートで聴くことの出来ないマイナーな分野であるが、それが古楽器によるもので、しかもそれが13人集まると言うのは、よほどのことでない限り、ないのではあるまいか。オーケストラのメンバーから13人の管楽器奏者を抽出して演奏するということはあるだろうが、そうなると俄然モダン楽器オケのメンバーによる特別演奏会のたぐいで取り上げられるカタチというのが、もっとありそうなことである。しかも現在では事実上失われてしまった一枚リード楽器、バセットホルンはクラリネットで置き換えられがちなパートであるし、それをその時代の楽器(もちろんそれは復元されたものではあるが)での演奏を耳にすることが希である。

Zelenkaの到達しがたい高みを極めた問題作「2本のオーボエとバスーンと通奏低音のためのソナタ(全6曲)」で、嫌というほどその深い音色と卓越したテクニックを見せつけてくれたAlfredo BernardiniとPaolo Grazzi、そしてAlberto Grazzi(おそらくPaolo Grazziの兄)が、当然のことながら1番と2番オーボエ、そしてバスーンの1番を占めている。この3人を除いて残りの10名は、すべて自分にとって、ほぼ初めてその聞く人ばかりである(調べたら、今回natural hornを吹いていたDileno Baldinという人は、ZefiroによるVivaldi曲集では、トランペットを吹いていたらしいことが判明)。

言及した2本のオーボエ以外では、「13管のセレナーデ」は2本のクラリネット、2本のバセットホルン、2本のバスーン、4本のナチュラルホルン、そして1台のコントラバスという編成になる(コントラバスーンを聴いてみたかったが、そのような古楽器が現在あるのかないのか、この度はコントラバスで)。この編成で残っているモーツァルトの原譜というのは、おそらく「グランパルティータ」以外にはないから、オール・モーツァルト・プログラムをやろうとすれば、曲ごとに演奏者を変えながらということにならざるを得ない。だが、そこはZefiroを率いるBernardini氏が、モーツァルト生前の時代におそらくこのように演奏されたであろうオペラのハルモニー(管楽合奏)バージョンを復元して、グランパルティータのフルメンバーで、「フィガロの結婚」をハイライトの形で演奏したのである。冒頭の「フィガロ」はそのまさに序曲で起きた自分の驚愕と感動を記述しようと愚かにも企てたものである。

グランパルティータは、自分が聴いてきたものはアーノンクールが指揮をしているウィーンフィルのメンバーによるものや「フルトベングラーが指揮をした」ものを含めてすべてモダン楽器によるものであったが、古楽器によるグランパルティータというのは、録音のものも含めて聴いたのは初めてであったのではないかと思う。まさかこのような希有のパフォーマンスを他でもないZefiroの演奏で聴けるとは。

初めて目にしたBernardiniは、一見学者然とした研究家を思わせる風貌をしている。しかしいったん演奏を始めると、自分が楽しみ、さらに人を楽しませようという、衒いのない音楽に対する姿勢があり、音が自然と「客の方に向いている」ところもあり、絶妙なバランス感覚で嫌みでない程度にエンターテイナーとしての要素も持った芸人であることも分かる。だが何よりも、驚くような歌と技巧を同時に聴かせてくれる音楽家である。

マーラーのカリカチュアとして知られる「マーラーの影絵」というのがあるが、鳴り止まぬアンコールへの呼び声に答えて、自らがそれを思わせるような風貌とジェスチュアで「現代音楽」と題する即興演奏を12人の仲間を相手に自ら指揮をした。その12人の演奏家たちの驚くような統率性。ヴォイスパフォーマーたちを指揮をする巻上公一氏さながらにBernardiniが、即興をやる。これで、「現代音楽」の何たるかを、実践的に相対化してくれたのだ。これ以上の、批評というものがあろうか? 彼は音楽創作を通じて現代的音楽のある部分を笑いにして葬ってくれたのだ。

Zelenka録音版で大いに暗示していたBernardiniらのradical性は、今回の演奏会によって、それが単なる想像の世界にだけ存在するものとしてではなくて、「音楽を通じてのヒューモアと批評精神」というものの実在を間近に見ることが出来たのだ。

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