映画『生きない』、そして、生きようとした実録『全身小説家』

■ ビデオ鑑賞第1弾 『生きない』

借金を抱えて多額の生命保険をかけた自殺願望の「有志」だけが13人集まって、事故を装った「集団自殺」を決行するために企画した「沖縄バスツアー」。そのなかに、行けなくなった人の代理人として事情を知らずにツアーに参加してしまう若く前向きな女性。さあどうなる? という感じの、ダンカン主演の『生きない』を鑑賞。監督は、清水浩。清水さん。昭島で即興工房やっていると思っていたら、こんな映画創っていたんだ。やるじゃん。すばらしい出来です。(なんて、爆!)

それにしても、死ぬには体力と工夫が要りますな。死ぬための体力と行動力。事故と見せかけるための工夫と計画。実に面白い。あれだけの行動力と未来を見据えられる想像力があれば、ボクより元気に生きられるよな、という感じ。死に向かって疾走するバスの中で、ある自殺志願者に発作がでる。すると皆で必死に介抱する。死のうとするほどに、生き生きとした生があり、生きようとしたときに死は突然やってくる。これは、実に良いテーマです。なんかカミュかカフカの小説を読んだような感じ。ダンカンさんって、初めてちゃんと見たんですが、はまってましたね。良い作品でした

■ ビデオ鑑賞第2弾 『全身小説家』

その後、先日観た、原一男の映画『またの日の知華』がきっかけで、以前からビデオに録っていた『全身小説家』を「再読」することに(一体いつ睡眠とるんだ?)。二度目の鑑賞のせいか、今度はその映像の捉えた内容が以前より頭に入ってくる。本を読むときと同じだ。井上光晴という人が何者だったのか、小説一つ読んでいないが、今はそれが分かる気がする。

多くの弟子たちの前で、権威者然としているが偉そうにではなく、むしろ爽やかに、そして、容赦なく、挑発的に弟子たちを叱咤する。ほんの15, 6年前の映像であるにも関わらず、とても古い時代の日本人を観るような気もする。叱咤され、否定され、それでもそれを快感に感じて付いていこうとするように見える弟子たち。こうしたメンタリティというのは、日本人にとっては案外まだ当たり前に師弟関係の中には生きていそうだし、かく言う自分の中にも「だめな自分を否定してもらいたい」という、ややマゾヒズムに近いメンタリティがいまだに巣食っていないとは言い切れない。

正確な言い回しは覚えていないが、井上光晴が言いたかったのは、「裸の自分を発揮せよ」というようなことだったと思う(そして、実際に弟子たちの前で率先してストリップをしてみせる。それは象徴的な)。「まだまだナマ緩い。もっとエゴを!」と言っていたようにも聞こえた。これは結局ボクというフィルタを通して自分が勝手にこの映画から受け取ったメッセージであるのだけど。

癌を告知されて入院、手術を受け入れた時点で、彼が病人になっていく過程がまた瑞々しくも痛々しく描かれている。病院と家族と本人のガップリ組んだ三位一体で病人は病人らしく造られていく。あんなに大きく肝臓をとられたら、どんなに元気な人でも骨抜きになるだろうというような、摘出された肝臓のなんとも大きかったこと。そもそも病人ドキュメンタリーを撮るつもりはなかったのかもしれないが、一球の病人ドキュメンタリーになっている(これは連れ合いの弁)。

病人に対して「顔色良いじゃない」とか「いやいや元気そうだね」と元気づけている見舞いの人が何人もでてくるが、その声やその言い回しが、形になった映像作品からは、なんとも紋切り型で工夫なく聞こえてしようがなかった。それがしかも思想家や宗教家の言葉なのだ。

元気のない人に「元気なさそう」ということを言っては行けないとはよく聞く。そのことで一度怒られたこともある。本当に具合の悪い人に具合が悪そうと言ってはいけない、と。でも、本当にそうだろうか? 空虚に響く紋切り型の見舞いの言葉よりも、「お前ほんとに大丈夫か?死にそうか?すごく気分悪そうだぞ!」と言われた方が、ボクなんか却って元気が出そうだからである。「そうだろ、気分悪そうだろ。悪いんだよ。死にそうなんだよ。ちぇ。死にそうだ。くそー死んでたまるか!」となる訳です。だから、「本当に具合の悪い人に具合が悪いと言ってはいけない」というのも、紋切り型の考えなんです。ケースバイケースだし、人によるんじゃないでしょうか? 元気ないと言われて元気が出る人もいるんです。

と、大いに『全身小説家』から脱線したところでおしまい。

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