競馬がこんなに…

映画『シービスケット Seabiscuit』を観る。こんなに良いんだったら映画館で観ときゃ良かった、と心底後悔。

動物モノの映画は、どんなにショーモナイものでもそれなりの客の動員がある、というようなことをどこかで聞いたことがある。それほどに、ボクらは“動物映画”に弱いらしい。考えてみたらこの映画もある種のドーブツ映画であるのかもしれないが、見終わるまでこれをドーブツモノであるという考えは一度も頭をよぎらなかった。映画に関してもだいたいジャンルを意識して鑑賞するということがないのだが、これはあくまでも人間モノ、その中でも、「敗北者人生挽回」映画なのである。「年齢不問青春映画」と呼んでも良い。

ある意味、Seabiscuitというのは、動物でありながら、あくまでも人間の操る乗り物(競争馬)なのであって、「動物と人(特にこども)との間の心温まる異種間交流」というような展開にはならない。むろん、Seabiscuitという名の馬自体を映画がまったく描かない訳ではない。描かれるにしても、その馬に関わる周囲の人間たちを描くような距離感(あるいはそれ以下)を伴うものでしかなく、小説で言うなら、複数の主人公たちを結びつける「ハブ」のような役割を果たす登場「人物」の一人のような役割を担っているに過ぎない。だから、カメラは過剰に馬に近づかない。馬のいかにも人好きするような愛らしい目、とか、同情を誘うような哀しい目、とか、そういうものを強調する「卑怯」な方法をこの映画は採らない。かといって、過剰に馬を即物的に描くわけでもなく、結果として、映画に出てくる登場人物が劇中でそうなるのと同じような意味で、馬に対する感情移入がやがて生じてくるのである。疾駆する馬から発せられる美は、映画の過剰な演出によるというよりは、語られる物語から鑑賞者が自発的に見つけていくよう(な錯角を覚えるみたい)にうまく仕組んである。

むしろ、最初から最後まで描き通されるのは、その馬に人生挽回を賭けるどろどろしたヒューマンたちなのであり、必ずしも愛されるようなタイプのハンサムガイたちではない。だが、みな魅力的である。

■■■【以下はあらすじ含み注意】■■■


クリス・クーパーが、馬の調教師の役(その名前も、トム・スミス)。馬の調教というのが、開拓時代が終わりモータリゼーションの波によって急速に時代遅れになりつつある職業なのである。だが、彼は馬をあくまでも生き物として見ているのであり、怪我をした馬に安楽死を施そうとしているのを見ると、拾ってきてしまう。「どんな馬にも役割がある」というのが、彼の持論である。

トビー・マグワイア演じる赤毛の若者(レッド)は、もとはそれなりに裕福で、教育熱心だが子だくさんの両親によって本来は知的に育てられる。若くして馬乗りのしての才能は見せる。だが、ある草競馬場で突然、両親から「くちべらし」の宣告を受け、事実上、その場で親に捨てられる(経済恐慌がきっかけであったとは言え、あまりに突然の出来事)。彼にあるのは、生きて行くために競馬の騎手になってレースで勝つことだけである。

そして、暴れ馬として扱える人のほとんどいない一頭のサラブレッドがSeabiscuitである。この馬と草競馬の馬乗りを組み合わせるのが、調教師のトム。

ジェフ・ブリッジズ演じる男(ハワード)は、車のビジネスに成功し、最初は飛ぶ鳥を落とす勢い。アメリカンドリーム実現の道を駆け上がっていたハワードだが、大恐慌と相次ぐ家族に降り掛かる不幸によって、敗北者に堕ちる縁に立っている。禁酒法時代でありながら、酒もギャンブルもオッケーと言うメキシコ側の賭場に赴き、気晴らしをしようとするが、彼が新しく人生の目的を見いだすのは、馬主になること。彼は、競走馬そのものに魅了されるというよりは、馬を見る目のある調教師の人間にまず惹かれる。そして、暴れ馬を競走馬として乗りこなすレッドに自分のかつての家族の姿を重ね合わせる。かくして、騎手、調教師、競走馬、そしてそれを世間に売り込んで行く辣腕オーナーという異色のチームが出来上がる。

キャスティングで注目したいのは、『American Beauty』で隣人の少年の父親(アメリカ人でありながら、どうもナチ信奉者であるらしい)を演じていたクリス・クーパーである。時代錯誤を錯誤と思わず、その職人的な頑固な気質を演じさせれば、天下一品であったのだ。

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